第一話 避難訓練
剛志は欠伸を噛み殺すと、ぼんやりと空を眺めた。すっきりとした秋晴れの青の中を幾数もの黒がスウと奔っていく。――雁の群れだろうか。
剛志は遠くへと去っていく黒を目で追い、視線だけで追いかけるには限界のところまでくると再び欠伸を噛み殺した。未だ校長の説教は終わる気配を見せない。一体あと何分したら、防災頭巾を脱ぐことができるのだろうか。
「タイムも移動中の動きも完ぺきだったのに怒られる意味が分かんねえんだけど」
教室に戻り、乱暴に椅子に腰かけながら剛志が愚痴ると、クラスメイトが苦笑した。
「ああ、前回はお前のせいで説教タイムが倍だった上にやり直ししたっけな」
「だから余計におかしくねえ!? 今回は完ぺきだったろ!」
そう、今回は完ぺきだった。何もかも、非の打ちどころがなかった。それにも関わらず、校長は賛辞もそこそこに思い上がるなだの何だのと怒号を飛ばし始めたのだ。
そもそも、S県の避難訓練はおかしい。剛志が今まで住んでいた東京では、避難訓練なんてものは春に一度実施されるのみだ。もちろん、防災頭巾を被っていなくてもハンカチを忘れていても怒られることはないし、全校生徒が校庭に集合し並び終わるまでのタイムなど計測することもない。
しかし、S県では全員がきっちりと防災頭巾を被り、二次災害で火災が発生したことを想定して口元にハンカチやタオルをあてがい、タイムの計測をする。そして、集合までの態度が悪ければやり直し。許可が下りるまできちんと防災頭巾やハンカチを装備し続けていなければやり直し。計測タイムが基準値を一秒でもオーバーしていればやり直しなのだ。
前回の訓練は剛志が転校してきて初めての訓練だったのだが、地震発生の構内アナウンスが流れるや否やクラスメイト達は一斉に机の下に無言で潜り込んだ。そんな彼らの姿は、剛志には異様に思えてならなかった。
避難開始のアナウンスで廊下に整列した際、防災頭巾を持ってさえ来ていなかった剛志に担任とクラスメイト達は「頼むから防災頭巾を被ってくれ」と懇願した。渋々防災頭巾を取りに戻って被ったものの、被り心地の悪さに嫌気がさして校庭に出たところで脱いでしまった。――それがまずかった。朝礼台上から生徒達を監督していた校長は、防災頭巾を被っていない剛志を見つけるなり顔を真っ赤にして怒鳴った。
「今、校舎から出てきた頭巾を被っていない男子! 所属と名は!?」
剛志が怪訝な顔を浮かべると、校長は再度「所属と名は?」と繰り返した。その様子に血相を変えた担任は剛志の許に走り寄ると無理やり防災頭巾を被せ直し、土下座せんばかりの勢いで校長に謝罪し始めた。しかし、校長は顔色一つ変えずに訓練のやり直しを宣言すると、担任と剛志に対して後ほど校長室に来るようにと告げたのだった。
「ていうか『所属と名は?』って軍隊じゃあるまいし。しかもタイム測るとかさ、誰と何を競ってるわけ? 本当におかしいって、ここの避難訓練」
前回の訓練を思い返して顔をしかめさせた剛志にクラスメイトは肩を竦めた。
「そう? 普通のことだと思うけどなあ。東京は違うの?」
幼稚園の頃まで記憶を遡らせてみても、こういう訓練しか受けたことないけど。――そんなことを口々に言ってくるクラスメイト達を剛志は一睨みすると、頭巾を枕にして突っ伏した。
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他にもおかしいことがある。それは、S県の遠足では行楽を楽しむということはないということだ。
年に一度の遠足を楽しみにしていた剛志は、目の前にそそり立つ〈県立地震防災センター〉と彫り込まれた石柱の看板を見てげっそりとしたのを覚えている。しかし、S県ではこれが普通らしく、幼稚園から今に至るまで遠足というと必ず此処を訪れているとクラスメイトが説明してくれた。
そう毎年必ず訪れているとなると飽きが来るのも当然と思いきや、彼らは非常に楽しそうだった。センターに入ってすぐ右手に津波の実験模型があるのだが、学友達は入館するなりこの模型の前に集まった。そして、模型を熱心に見つめだした。中には模型から流れるナレーションを一言一句違わず、かつ同じタイミングで熱を込めて発する者や、模型上で起こる津波について実況する者もいた。――正直、これには少し引いてしまったのを剛志は覚えている。
剛志はこれ以上クラスメイト達に付き合ってはいられないと言わんばかりに体験ブースへと逃げた。そして、そこでまた酷い目にあった。
地震の揺れを体験するブースにやって来た剛志は、我が目を疑った。剛志は小さい頃に一度だけ同じものを体験したことがあったのだが、その記憶にある最大設定震度よりも二、三は上の数字がそこには記されていた。――だが二、三増えたところで、さほど差はないだろう。そう高をくくっていた剛志はこの時本気で死を覚悟した。
体験は少しずつ設定震度を上げていく形で行われた。東京の防災センターでは最大だった震度までは気持ちに余裕があったが、そこを少し超えた瞬間からブース内の様子が一変し、剛志はキッチンテーブルの脚に必死にしがみついた。
ブース内に設置されている食器棚は倒れて来ないようにビスでしっかりと固定されてはいるのだが、さすがに本体験ブースの最大震度にもなるとギシギシと音を立て、今にも倒れかかってきそうな気配を醸していた。揺れの大きさも食器棚の立てる音も今までとは比べ物にならないほど尋常ではなく、剛志は思わず楽しかった思い出の数々と両親の笑顔を脳裏に浮かべてしまった。
その隣の火災からの脱出体験では、ブースの中が迷路状になっているだけではなくダミーの扉がいくつもあり、中々脱出させてもらえずにすっかりといぶされた。更に隣の消化体験ブースでは実際に消防活動の現場で使われているホースからの放水が体験出来るのだが、出力が想像以上に強く、危うくびしょ濡れになるところだった。
そして最後に、応急救護の体験がある意味で一番最悪だった。人工呼吸用の人形を前にもじもじと恥ずかしがる女子の前にやってきた、カッコつけたい男ども。こいつらが悪ノリし過ぎて、人形相手ではなく周りにいた他の男子相手に人工呼吸のレクチャーを始めたのだ。
むさい男同士の熱いベーゼを見せられた女子が悲鳴を上げたのは言うまでもなく、うっかり目撃してしまった上に巻き込まれて唇を奪われかけた剛志は間一髪のところでクラスメイトを張り倒し、体調不良を理由に遠足を早退したのだった。
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溜め息とともにに遠足の思い出をどこかへと吐き捨てると、剛志はのっそりと体を起こした。
ショートホームルームのために教室に入ってきた担任が教卓の前につくと、部屋全体がタイミング良くぐらりと揺れた。揺れと同時にクラスメイトの数名が反射的に机の下へと潜り、それを見た担任が何事もなかったかのように名簿で教卓をトントンと叩いた。
「ほら、いつまで机の下にいるの? 今の、震度3でしょ。そのくらいじゃあホームルーム中止しないから。早く戻ってきなさい」
ほら早く、と急き立てられ渋々と机の下から這い出るクラスメイト達の光景も、今ではすっかりと見慣れてしまった。でも、剛志は今でも思う。それはおかしい、と。
普通に過ごしていてこんなに敏感に揺れを察知して対応できるものだろうか。それに、普通は体感で〈今起きた地震の震度〉なんて当てられるわけがない。しかしながら、担任やクラスメイト達はそれを易々とやってのけるのだ。
――本当に、S県民とやらはおかしいとしか言いようがない。