東京時代17
翌朝も、文治は朝の散歩をしていた。昨朝と同じ様に霜柱が立ち、通勤に急ぐ者達が、足早に通り過ぎていく。一つだけ違うと文治が考えていたのは、文治と歩調を合わせる様な速度で、しかも距離を取って歩く者が居る事である。朝の通勤者であれば、文治が色々なものを観察しながらの速度には合ってこない筈である。他の通勤者から行動が浮いているのであるから、文治を監視している事は直ぐに分かる。
文治は、踵を返し、その者との距離を詰めていって、三間程の距離から、その者を観察した。厚手の外套を着て、帽子を目深に被っているが、西洋人でない事は確かである。
「何か御用ですか。」文治は、その者に声を掛けた。だが、その者は、今来た道を走り去っていった。
文治には、初めての経験である。人々を観察する事は有っても、長い距離を観察されながら歩いた事など一度も無かった。奇異な事であると感じて、文治は戻ることにした。
文治が、先程の者が立ち去った所まで歩いたところで、手帳が落ちていることに気付いた。先程の者が落としたのか、又は、置いていったのか分からない。文治は、拾って中を見た。何か書いてあるのだが、今迄見た事の無い文字が書き込まれている。暗号なのか、文字なのか分からないが、取り敢えず、懐に入れて、戻り路をたどった。
屋敷に戻ってみると、藤神が帰って来たところである。梅吉と冬美が車から荷を下ろしている。
「文治さん、お帰りなさいませ。御主人が食堂で和江さんと話をされています。」
文治に気付いた冬美は、それだけ言ううと、荷物を運ぶ作業に戻った。
文治は、藤神と和江の話に入るつもりは無いが、昨晩の實小路との話を報告することは必要であろうと、食堂へ向かっていった。
食堂では、和江とハナが並んで座り、藤神と幸子が並んで話を聞いていた。主には、幸子が二人と話をして、藤神は聞いているだけである。
藤神は、文治が入って来た事に気付いて、席を立って文治に近づいてきた。
「文治君、大変だったな。御苦労。」藤神は、文治に小声で言った。
文治は、軽く頭を下げて応じ、「いえ。藤神さんも、早朝にお戻りになって、ゆっくりできなかったのですよね。」と、藤神の苦労にも慰労の言葉を投げた。
「なあに、昨晩は奥と二人でワインをガブ飲みして、満足しておるよ。」
「そうですか。和江さんとのお話は終わりましたか。」
「うん、まあ、大体の話は、實小路の金丸から聞いておるのでな。今迄通り、和江を使っていくことを決めるだけだ。後は、女性同士の慰め合いの話をしておる。儂では、話に着いていけぬ。文治君が来てくれて助かった。」
文治は、然も有りなんと、微笑し、言った。
「藤神さん。昨晩、實小路さんと話をしまして、その事について、お話をしたいと思います。お時間を頂けますか。」
「ふむ。急ぎの話かね。」
「いえ。恐らくは、それ程でも無いと思います。」
「そうか、では、朝食後に座敷で聞こう。」
二人は、食卓のいつもの席に座り、「朝飯にするぞ。」と藤神が声を上げた。
冬美は、慌てて茶漬けを用意した。
横では、最後に幸子がハナと話していた。
「それじゃあ、ハナちゃんは、暫く居てくれるのね。」
「ええ、和江が落ち着く迄、お手伝いさせていただきますわ。」
「有難う。和江さん、貴女も良いわよね。」幸子は、和江に念を押した。
「はい。」和江は、恐縮したように、小さな声で返事をした。
「文治君。後で、呼びに来てくれたまえ。」早々と藤神は食べ終え、漬物を口に放り込みながら言った。
「幸子。後で、文治君と座敷で話をするのでな。」と、藤神は、幸子に声を掛けて食堂を出ていった。
幸子は、文治に微笑んで、茶漬けを食べ始めた。
湯呑に茶を入れてくれる冬美に、文治は話し掛けた。
「冬美さん。和江さんとハナさんは、元々、お知り合いなのですか。」
「あら、そう言えば、お話ししていなかったですね。お二人は従妹なのですよ。年も同じだったかしら。」
「ハナが一つお姉さんよ。」幸子が口を挟んだ。
文治は、幸子うの方に向き直って、「幸子さんも、御存知なのですか。」と、少し驚いた様に言った。
幸子は、茶碗に口を付けたまま、頷いた。
「奥様の方が、よくご存じですよ。ハナさんと和江さんを御雇になったのですから。」
文治は、湯呑に伸ばした手を止めて幸子を見た。
幸子は、「ふふっ」とだけ笑って、席を立ち、「冬美。後で珈琲ね。」と、食堂を出ていった。
幸子を見送って、湯呑を持ち上げた文治に、冬美は続けた。
「最初は、ハナさんがお仕えしてらしたの。こちらのお嬢様付きだったのね。そのお嬢様が嫁がれたので、ハナさんも、お嬢様と御一緒に實小路様の御屋敷に移られたの。その代わりとして、ハナさんが、名古屋の従妹の和江さんを紹介されたという事らしいのよ。」
「名古屋ですか。」
「えーっと、和江さんの親御さんが亡くなって、名古屋の親戚に身を寄せていたらしいわね。光三さんは、東京で大工をされてたので、別々に暮らしてたらしいけど。和江さんは、御両親のお墓がある東京に戻りたいと言われてたらしくて、ハナさんが奥様にご相談なさった様です。」
「そんな事が有ったのですか。」
文治は、光三が名古屋の話をしていた事を思い出し、そんな事情が有ったのかと、思いを馳せた。
「何の話をしてらっしゃるのですか。」ハナ、和江、梅吉が四人分の朝食を持って入って来た。
冬美は、藤神達の食器を片付けながら、「ハナさんの悪口を言ってましたの。」と冗談を言った。
「道理で、鼻がむず痒いと思ったわ。」ハナは四人分の朝食を並べながら応えた。
梅吉、ハナ、和江、冬美の四人は、食卓に着いて食事を始めた。
文治は、梅吉が夜中に運転してきたことに対して慰労の言葉を掛けた。
「うん。葡萄畑の中の道は狭くて、猪が出るから気を付けろって脅されて、しかも、所々雪が残ってて、もう、へとへとだ。悪いが、飯食ったら寝かせてもらうよ。」
梅吉は、疲労の色が濃く、弱音を吐いた。
「御免なさい。」和江が、そうなったのは自分のせいだと、呟いた。
「ほら、和江。さっきも言ったでしょ。貴女が塞ぎ込むと、皆が暗くなっちゃうでしょ。もっと先を考えて。」
和江の呟きに、ハナは和江の肩をつついた。
「じゃあ、私は、うちの人の寝床を用意しますから。それから、和江さん。奥様が珈琲を出して欲しいと、仰られてますので、お願いします。」
手早く、食事を済ませた冬美は、普段と変わらない言い方で、自分の食器を持って出ていった。
和枝は、我に返って、手早く食事を済ませ、珈琲の準備をするために食堂を出ていった。ハナは頷いて、見送った。梅吉も就寝できると、食堂を後にした。
「文治さん。東京に来てから、未だ一週間なのに、随分と色々な事が有って、大変よね。」ハナは、文治が巻き込まれた色々なことを思って、素直な感想を口にした。
「いえ。皆さんが大変な時にお邪魔している様で、かえって申し訳無いと思っています。」
「違うのよ。うちの旦那様は。文治さんが来る時を狙って研修を仕掛けているの。でも、ジョージについては、思いも依らなかったわね。あら、そう言えば、文治さん。藤神様とお話が有るのですよね。個人的にお話ししたい事は色々ありますけど、御引止めする訳にはいかないので、どうぞ。」
そう言って、ハナは食卓の上の食器を片付け始めた。
「失礼します。」文治は、藤神の部屋を訪れた。
「おう、文治君。来たか。それでは、座敷に行こうか。」
藤神は、読んでいた書籍を閉じて言った。その書籍は、昨日、文治が読み写したものだった。
座敷で、文治は藤神に報告を始めた。報告を始めると、直ぐに幸子も加わって、話を聞いた。
昨日の出来事、ジョージの処刑に至る簡単な考察についてである。その中で、先程、藤神が読んでいた書籍の内容を読み写した文書に、ジョージが驚いた事も報告した。
藤神は、文治が写した文書を見て、書籍を自室から持ってきた。
「それは、お父様が著した本なのよ。」幸子は、その書籍を見て言った。
「儂も、編さんの一人だがな。」藤神は、付け加えた。
「そうか、米国が未だ我が国に対する属国政策が続いているという事だな。清国の英国支配に対抗するために、米国が我が国を属国にして、代理戦争をするという戦略であるな。」
「そうね。隷属させられて、国が荒れてしまう事になるのではと、心配してしまうわね。」
幸子は、藤神と対等の話ができる程の知識を持っている言い方である。文治は、幸子の言葉に目を丸くした。
文治の表情を読み取って、藤神が説明してくれた。
「奥はな、父上と儂の研究仲間なのだよ。いや、むしろ、父上と奥の研究仲間に儂が後から加わったと言った方が正しいかな。」
「でも、貴方が加わってから、大きく研究が進んだのは、確かよ。」
文治は、藤神達の研究というものが何なのか、分からなかったが、二人が知識を共有していることは分かった。
その後、米国大使館との繋ぎであるジョージを失って、代わりの繋ぎに対する話が二人の間で交わされ、實小路と白井の名前が挙がって、連絡を取る事で、一旦、結びとなった。
文治は、二人の話を聞くだけで、何も話に加わる事ができなかった。
「ところで。もう一つ、御報告が有ります。」
文治は、今朝の事を手帳と共に報告した。散歩の時に、見知らぬ者に会った事である。
藤神は、手帳の文字を見て、表情を曇らせた。手帳を幸子に渡しながら、言った。
「文治君、有難う。至急、白井に連絡を取らねばならん。恐らく、越国の文字だ。英国との代理戦争だけでなく、仏国との代理戦争にも巻き込まれてしまう事になるかも知れん。」
「貴方。似てるけど、越国では無いでしょう。隣国の暹国か緬国ね。緬国なら英国の代理戦争には違いないけど。」
幸子は、その地方の文字にも精通しているのかと、文治は驚いた。
「緬国、暹国か。それでは五陵の出番だな。仕方ない、全員に声を掛けるとするか。文治君。済まぬが英語の練習は、お預けだ。連絡を取ってくる。」そう言って藤神は電話を掛けに出ていった。
「文治さん。慌ただしくなっちゃったわね。」そう言って、珈琲茶碗を手に、幸子も出ていった。
文治も、取り敢えず、部屋に戻って、今の話を整理して書き留める事にした。




