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ロバート教授の幻獣生態調査記録  作者: ロバート・クロフト
第三章 一九七三年 河口湿地帯における夜間灯火の異常変調および水面反射異常の予備調査
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第一節

**一九七三年六月三日 西方沿岸、ベルンハーフ河口港着**


河口の町には、山地とも内海沿岸とも異なる種類の雑多さがある。

海から来たものと川から下ってきたものとが、同じ桟橋のまわりで濡れ、腐り、売られ、積み替えられるからだろう。魚、泥、塩、藻、石炭、麻縄、濡れた木材、安い酒、古い帆布。そうした匂いが風向きひとつで混ざり合い、朝と夕で別の町のように感じられる。


ベルンハーフは、その意味で正直な港だった。

繁栄していると言えなくもないし、衰えていると言っても差し支えない。河口の泥洲が年々形を変えるため、大きな船は沖の繋船地へ留め、小舟で荷を移すほかない。運河は多いが流れは一定せず、湿地の奥には古い水門と新しい堤が入り混じっている。町の中心は石造りで体裁を保っているが、少し外れれば板張りの家が杭の上へ傾いて建ち、満潮のたび床下へ濁った水を通していた。


大学から届いた依頼文には、

「河口湿地帯における夜間灯火の異常変調および水面反射異常の予備調査」

とある。例によって大学らしい書き方である。

現地の者はもっと簡単に言った。

**呼ぶ水のことだ**、と。


私がその言い方を最初に聞いたのは、港の荷揚げ場に面した食堂だった。宿を兼ねたその店では、昼間から漁師と荷役人夫が雑に酒を飲んでおり、私のような外地の学者は明らかに異物だった。紹介状を見せると、店の主は歓迎も警戒もせず、

「なら夜の運河へは一人で行くな」

とだけ言った。

それから鍋を混ぜながら、もう一つ付け足した。

「灯が青くなったら櫂を止めろ。呼ばれても返事はするな」


この町では、港の怪談は戒めとして語られているらしい。そうした話は往々にして現実の事故と結びついている。舟の転覆、濃霧、潮の逆流、酒に酔った夜の転落。私はまずその類を疑った。だが、大学がわざわざ私を寄越した以上、単なる水難防止の口伝だけではないのだろう。


午後、港湾監理の事務所で記録を見せてもらった。

管理官は人間の男で、名をベランという。帳簿の扱いが手堅く、余計な想像を嫌う性分らしかった。彼は現象を怪異めかさず、実務上の支障として説明した。


「事故件数そのものは増えていません。困るのは、夜の操船報告が揃わないことです」

「揃わない、とは」

「同じ水路を通った三艘が、別々の位置で灯火異常を報告する。あるいは一艘だけ、水面に灯が映らなかったと言う。距離や時刻も食い違う。酔いのせいだと片づけたいところですが、見張り台からも何度か確認されています」


彼は簡単な航路図を机に広げた。

ベルンハーフの河口は一本の広い流れではなく、泥洲と葦原に分かれた複数の水路から成っている。主航路のほかに、漁師が使う細い抜け道、湿地管理の小舟だけが通る浅い運河、昔の堤防が半ば崩れて水面下に残る危険箇所などが複雑に入り組んでいた。異常報告は、そのうち東の外れの旧塩田水路に偏っている。

人の往来が最も多い場所より、こうした「使われてはいるが主流ではない」場所へ現象が寄るほうが、むしろ自然だった。


「見た者は、何がいたと言いますか」

私が訊くと、ベランはわずかに肩をすくめた。

「水鳥だという者もいる。大きな魚だと言う者もいる。女の髪のようなものを見たと主張する者もいます」

「あなた自身は?」

「私は灯火だけを信じます。火の色は嘘をつきにくい」


実務家らしい答えである。

同時に、この町の者が現象そのものより、その前触れとしての灯火を重視していることも示していた。人は未知そのものより、未知が近づく時の癖を先に覚える。


夕刻、港の西端にある水門小屋を訪ねた。

湿地の水位管理を任されているのは、年老いたエルフの女だった。名をセラという。年齢は見当もつかない。人間の時間感覚で接すると、彼らとの会話はしばしば急ぎすぎる。私は紹介状を見せ、大学の依頼と、自分が知りたいのは灯火の利用価値ではなく、その背後にいるものの生態であると話した。


彼女はしばらく黙って私の顔を見ていたが、やがて水門の外を顎で示した。

「なら、灯りのことばかり考えないことです。あれは火に来るのではなく、水のほうへ来る」

「魚を追っている?」

「そうとも言えるし、違うとも言える。流れの折れる場所を知っているのです」


この言い方は好ましかった。土地の者が対象を怪異ではなく習性として語り始める時、たいていそこには観察の蓄積がある。


セラの話では、問題の旧塩田水路は、かつて外海から塩水を引き込むため人工的に掘り広げられたもので、今は使われなくなった水門と自然の泥洲とが中途半端につながっているという。満潮と引潮のあいだに、表面の流れと底の流れが逆向きになる時間帯があり、その時だけ小魚がまとまって動く。夜に舟の灯が乱れるのも、その時間帯に多いらしい。

「人間は灯りが変だと言う。でも、あれは人間の火のほうが、水の事情へ割り込んでいるだけです」

と彼女は言った。


この種の言葉は大学向けの報告には載せにくい。

だが私の本来の記録には、こういう認識のほうが必要である。生きものは、人間の不可思議を生きているのではない。こちらが勝手に不可思議と呼んでいるだけで、彼らにとっては流れ、匂い、餌、繁殖、身の隠し方といった条件の組み合わせにすぎない。


その晩はまだ観測に出なかった。

到着初日から夜の水路へ乗り出すほど、私は若くも無謀でもない。現地の者の忠告を聞き、地図を見て、水位の変化を理解してからでなければ、この種の場所では人間のほうが先に迷う。


宿の二階で窓を開け、港の灯をしばらく眺めた。風は南から吹き、潮より泥の匂いが強い。岸壁のランタンは安定している。沖の船灯も揺れてはいるが異常はない。

ただ、東の外れ、旧塩田水路のほうだけが、時おり妙に暗く見えた。霧があるわけでもない。灯りが消えたのでもない。

水が光を拒んでいる、と書くほうが近い見え方だった。


私はその感覚を、まだ本文には書かないことにした。初日の印象は便利だが危険でもある。見たいものへ意味を足しすぎるからだ。

その代わり、手帳の端にこうだけ記した。


**この町では、人は現象を「呼ばれる」と言い、水門番は「流れの折れ」と言う。おそらく両方とも外してはいない。**


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