夢見草の宿(前編)
山の麓にある花街〈桜影〉は、夜になっても賑わいを見せていた。
けれど、その美しさの裏で囁かれるのは、不穏な噂。
「夢で女に呼ばれた者は、帰らぬ人になる」
死人たちは、皆まどろむような顔で死んでいた。
そして、その夢の中に現れるのは、「夢見草の香に包まれた女」――。
紅灯の影に怯えた宿場の長が密かに雇ったのが、妖退治を生業とする流れ者――楓と結だった。
◇
「……また、こういう場所ですか」
紅提灯がゆらめく夜の花街。結はあからさまに気乗りしない表情をしていた。
「師匠、ここに“妖怪”がいるって、本当なんですか?」
「さてね。花街に妖しさはつきものだろう?」
楓はいつもの調子で団子を頬張りながら、女給に案内されるまま、遊郭〈桜影〉の奥へと進んでいた。
出迎えたのは、やや控えめに身を屈めた若い女給。
「……いらっしゃいませ。ご案内いたします」
その声にはかすかに緊張が滲んでいた。名を千早という。
その仕草と控えめな声に、結はどこか親近感を覚えるが、楓はちらと千早を見ただけで素通りした。
そして座敷の障子が開く。
「久しいわね、楓」
現れたのは、艶やかな着物に身を包み、どこか空虚な微笑みをたたえた花魁――紅音。
「やあ、紅音くん。相変わらず毒を包んで艶やかだね」
「そちらこそ、何年経っても面の皮が厚いわ。血の匂いも香に紛れる、ってね」
互いに微笑みながら、剣を交えるようなやりとり。
その空気に、結が思わず楓の袖を引く。
「師匠、お知り合いで…?」
「旧友だよ。多少ややこしいがね」
「ややこしい、って……」
楓は笑って誤魔化すが、その目には一切の隙がない。
◇
香の煙がゆるやかに漂う部屋。千早が淹れた茶の湯気が、どこか異様に見えた。
「最近、妙な死が続いてるんでしょう? 夢の中で、静かに命を絶たれる」
楓が茶を口に運びながら目を細める。
「聞いたよ。『夢見草』とやらが焚かれた部屋で男たちが死んでいる」
「ふふ、さすが。話が早くて助かるわ」
「それで? 紅音くんの読みは?」
「私の“ところ”で死んだわけじゃないの。うちで遊んだ後、泊まった宿で死んでいる。でも……」
「最後に会ったのが君だ」
「……そう」
紅音が視線を逸らし、わずかに伏し目がちになる。
「ところで、あちらのお嬢さんは?」
「弟子さ。名を結。強いぞ」
「なるほど。確かに、いい目をしてる」
紅音が結ににじり寄り、顎にそっと手を添える。
「どこで拾ったの?こんなに可愛らしい子を」
「あ、ありがとうございます」
「ふふ、照れてる。可愛い」
その様子を、千早がじっと見つめている。目元が少しだけ、険しくなった。
「お紅さん、そういうの、やめた方が……」
「どうしたの、千早。まさか妬いてる?」
「べ、別に、そんなわけじゃ……!」
◇
夜も更け、楓と結は紅音から渡された情報を元に、宿で死者が出たという部屋を訪れる。
小さな寝室。香の壺、まだ微かに漂う甘い香り。
「この香り……これが『夢見草』ですね」
結が小皿を見て、慎重に距離を取る。
床に落ちた紙片を拾い、楓が読む。
「夢の中の女が俺を呼んだ。名前を何度も……」
「名前を呼び、奪う……。これは“名喰い”だな」
楓が低く呟いた瞬間、部屋の香が一気に濃くなる。
目の前が霞んで、結が膝をつく。
「――結!」
楓が駆け寄ろうとしたが、既に結の意識は落ちていた。
部屋の中、静かに風が吹いた。




