そこにいた人
鞭を握っていた人物が、あまりにも予想外の人であった為、私は暫く言葉を失い、ただただ彼を見つめていた。
そんな、まさか。
私の頭の中は、その言葉だけでいっぱいで。
だって、まさかこんな場所で彼に会ってしまうだなんて、予想もしていなかったから。
「どうして……」
あまりにも動揺しすぎて、私はその一言を口にするだけで精一杯だった。本当はもっと色々と言いたいのに、頭の中が真っ白になってしまい、何も浮かんでは来なくて。
呆然と見つめ続けていたら、彼に困ったように微笑まれた。
「どうしてって言われても……仕事だから、としか言いようがないな。あ、でも勘違いしないで欲しいんだけど、そこの馬鹿が君に不埒な真似をしたのは、僕の命令じゃないからね」
これだから馬鹿は嫌いなんだ……と呟くように言って、彼が鞭を持つ手を後ろに引き、破落戸を自分の方へと引き寄せる。死んではいないようだけど、既に男は意識を失っているらしく、首から鞭を外されても、動く様子はない。
ところでさ……と、彼は破落戸の背を踏みつけながら椅子に肘を付き、真っ直ぐ私に視線を向けて来た。
「逆に質問させて欲しいんだけど、なんで君はこいつに捕まったわけ? 何か狙われる理由でもあった?」
「そんなこと……」
分からない。
その男には今まで一度も会ったことはないし、攫われる覚えもない。
「宿屋から出て来たら、突然襲われて……それ以外は何も……」
「ふ~ん」
私の返答に納得していないのか、彼は唇を尖らせる。
「僕はこいつらに君を連れて来いと言った覚えはないし、狙っていたのは別の人だったんだけど……何処で狙いが入れ替わったんだろうね?」
心当たりはない? と問われるも、全く身に覚えがない私は、答えることができない。
破落戸が誰を狙っていたのかは知らないけれど、その対象がどうして自分になったかなんて、私に分かるわけがないのだ。何の為にここへ連れて来られたのかさえ、未だに分からないというのに。
「じゃあさ、君は宿屋で誰と一緒にいた? というか、今日は誰と一緒に街へ来たんだい?」
突然質問の趣旨が変わったことに、戸惑って首を傾げる。
どうしてそんなことを聞くんだろう?
と思ったけれど、隠すような事でもなかった為、私はその質問に素直に答えを返した。
「宿屋では、リーゲル様と一緒だったわ。街へ来た時は、王太子殿下と王女殿下もご一緒で──」
瞬間、彼がパチンと指を鳴らした。
「それだ! 漸く分かった。君は王女殿下に嵌められたんだ」
「ええっ!?」
一体どういうこと? 王女殿下が私を嵌めたって……どうして彼女がそんなことを?
混乱する私とは対照的に、彼はわけ知り顔でニヤリと笑う。
「成る程ね……。世間知らずの王族である筈が、意外に手強いと聞いていたのは本当だったってことか」
それにしても、と言いながら立ち上がると、彼は私の方へと近付いてきて、すぐ隣に腰をおろした。
「君を身代わりにしたのは許し難いな。そのせいで、君が傷物にされるところだった」
ヘマタイト公爵とは白い結婚なんだよね? と確認するかのように問われ、小さく頷く。
だってそれは、私とリーゲル様の結婚の条件でもあることだから。
「そっか、そっか。だとしても、こうなった以上、君をあちらに返すわけにはいかないな……。そっちの件はまだもう少し時間がかかりそうだけど、こうなるとそうも言っていられないし」
「あ、あの!」
ブツブツと独り言を言い始めた彼に、私は意を決して口を開く。
思考回路は未だ混乱の真っ只中であったけれど、このまま黙っていたら分からない事だらけになって、最終的に何一つ知る事のないままに終わらされてしまいそうな気がしたから。
こんなにも疑問だらけのまま、一人だけ蚊帳の外だなんて冗談じゃないわ。
「私が王女殿下に嵌められたというのは、どういう事なんですの?」
その質問に、一瞬キョトンとした顔をして。次の瞬間、彼は何故だか破顔した。
「ああ、ごめんごめん。そういえば君は何にも知らないんだったね。僕の仕事内容は本来人に知られてはいけないものなんだけど……う~ん、君ならいいかな」
不意に肩を抱き寄せられ、耳元で囁かれる。
「絶対に内緒だよ」
あの、肩を抱き寄せる前に縛られた手首を解いて欲しいのですが……。
そう思ったけど、言えなかった。
「実は僕──」
「聞くなグラディス!!」
彼の声を遮るかのように、突如響き渡った声。
驚いて声のした方を見れば、リーゲル様が絶対零度の空気を撒き散らしながら、此方に鋭い目を向けていた。
「アダマン侯爵家嫡男エルンスト──今すぐ私の妻から手を離せ!」
「リーゲル様!」
私は反射的に立ちあがろうとして──けれどエルンスト様に肩を押さえつけられ、立ち上がる事はかなわなかった。
「あの……?」
「ヘマタイト公爵……どうせ白い結婚なんだろ? だったらいいじゃないか。グラディス嬢は僕がもらう。だからサッサと離婚してくれないかな?」
そう言ったエルンスト様は、なんとなく雰囲気がそれまでとは違っていて。
私はただ、彼を見つめることしかできなかった。
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