良い匂いがします
「失礼致します」
「ああ、グラディス。疲れているだろうに、すまなかったな」
応接室へ訪れると、既にリーゲル様は私を待っていて下さった。
そこで私は素早く室内へ目を走らせ、彼とメイド以外は誰の姿も見えないことを真っ先に確認する。
どうやら王女殿下はいらっしゃらないようね。良かった……。
「どうした? 早く此方へ」
私が中々座ろうとしないからか、リーゲル様に声をかけられる。
「は、はい。申し訳ありません」
部屋の中央にあるテーブルへと近付き、彼と向き合う形でソファへ腰を下ろそうとすると──。
「違う。此方だ、グラディス。此方へ座ってくれ」
何故だか彼の隣を指し示された。
「え? いえ、あの……」
「いいから早く此方へ来てくれ」
「は、はい……」
一度は躊躇い、断ろうとしたものの、再度請われては拒否なんてできるはずがない。
高鳴る胸を押さえながら、私はゆっくりとリーゲル様の元へと近付いた。
どうしよう。緊張しすぎて口から心臓が飛び出してしまいそう……というか、最早胸を突き破って出て来そうなんだけれど。
身体全体が心臓になってしまったみたいに激しく脈打ち、心臓の音以外、何も聞こえなくなる。
私の心臓の音が大きすぎて、このままだとリーゲル様の声が聞こえないかもしれない。
それに、隣なんかに座ったら、確実に心臓の音を聞かれてしまうわ。
いやだ。そんなの恥ずかしすぎる。どうしよう……。
悶々と考えるも、座らないわけにはいかず。
「し、失礼します……」
おずおずと近付き、間違ってもリーゲル様の洋服の裾など踏んでしまわないよう、細心の注意を払いつつ隣に座った。
瞬間、とてつもなく良い香りが鼻を掠める。
これは……!
何の香りかを把握すると同時に、もの凄い勢いでリーゲル様の方を向いてしまう。
「ん? どうかしたか?」
途端に声をかけられ、大慌てで首を横に激しく振った。
まずい、まずいわ。これでは変態だと思われてしまう。
なんとか平静を装わないと……。
と思うものの、意識は半分以上鼻に集中しており、必死にリーゲル様の匂いを吸い込んでしまっている。
頭と行動がまったく一致していない。寧ろ正反対の動きをしている。
ヤバい、幸せ、良い匂い。
本当は彼の匂いを思う存分、全身を満たすほど吸い込みたいけれど、それだと呼吸音を聞かれてしまう可能性が高いから、流石にできない。
細かく回数多めに吸えば、量はカバーできるはずよね。
リーゲル様の香り及び周辺の空気を少しでも多く体の内に取り込むため、私は懸命に浅い呼吸を繰り返す。
集中するあまり、つい目を閉じて控え目に深呼吸をしていたら、不意に香りが強くなった。
あれ……?
不思議に思ったけれど、幸せに浸っているため、そのまま目を開けることなく匂いを堪能させてもらう。
ああ、本当に良い匂い。
リーゲル様の全てが素敵。
じんわりと頬に温かみを感じる気がして、そっと擦り寄る。
良い匂いだし、なんだかあったかいし、幸せ……。
そこで私は、唐突におかしなことに気が付いた。
ん? あったかい?
鼻ではなく、温かみを感じる頬へと意識を集中させると、寄り添うように何かに凭れかかっていて、その『何か』が温かいのだと気付く。
え……待って。これってまさか……。
そんなはずないよね? と思いながら、そっと目を開け、顔を上げる。
刹那、優しく微笑むアイスブルーの瞳と目が合った。
「私はそれほど良い匂いがするか? 妻に好かれるのはありがたいことだが、これほどまでに嗅がれると少しばかり恥ずかしいな」
え、リーゲル様……え!?
ギギギと音がしそうな程ぎこちない動きで首を動かし、自分が凭れている場所を確認する。
ここは……リーゲル様の肩……のような?
温かみを感じたのは、彼の肩へ無意識に擦り寄っていたかららしい。
「ひえっ」
状況を理解した瞬間、思わず体を離そうとすると、何故だかそれを阻止するかのように強く肩を掴まれた。
「離れることはない。嗅ぎたいなら、好きなだけ嗅ぐと良い」
「いいいいいいえ、ももももう結構です」
いくら本人の許可をいただいたとはいえ、堂々と匂いを嗅ぐ勇気なんてあるわけがない。
取り敢えず気味悪がられたり、ドン引きされたりはしていないようで、それについては安心だけれど、とはいえ今のこの状態は一体なんなのか。
とにかく近い! 近すぎる!
リーゲル様のことは大好きだし、近付けるのは正直嬉しい。でも、流石にこれはいきなりすぎて感情が追いつかない。
近い、温かい、良い匂い。近い、温かい、良い匂い──。
それらの言葉だけがぐるぐると頭の中を巡り、興奮して息も絶え絶えになっていると、カートを押してきたメイドが、テーブルの上に紅茶と美味しそうなケーキを置くのが目に入った。
あまりにも美味しそうなその見た目に、思わず視線が吸い寄せられる。
それに気付いたらしいリーゲル様は、私の肩から手を離すと、ケーキ皿へと手を伸ばす。
同時に、頬に感じていた温もりも遠去かり、私はホッとしたような寂しいような、複雑な気持ちを感じた。
でも、ずっとあのままでいるわけにはいかなかったし、これで良かったのよね。
そう思うことで自分を納得させ、ケーキ皿を受け取るべくリーゲル様へ両手を向ける。
けれど。
「グラディス、今日はすまなかったな」
その言葉と共に彼が差し出してきたものは、一口大のケーキが乗せられたフォークだった。




