夫婦だから
「邸内で、薬箱が置いてありそうな部屋は……」
痛む足で無駄に歩かなくて済むように、私はバルコニーに立ち尽くした状態で、必死に邸内の見取り図を頭に思い浮かべる。
食堂? 違う。 客室? あるわけない。 大広間? 書斎? え、どこ?
考えても考えても薬箱を見た記憶すらなく、同時に、邸宅のあまりの広さに眩暈を起こし、その場に座り込んでしまう。
これ、自力で薬箱を見つけるなんて不可能じゃない? っていうか、こんな足で歩き回っても、絶対見つけられる気がしないわ……。
ため息を吐き、痛む足へと目を向ける。捻った箇所はコートの裾で隠されているが、恐らく腫れていることだろう。
直視するのが怖くて目を逸らしているが、足の痛みはどんどん強くなってきている。こうなると、もう隠すのは無理だろうから、ポルテが起きるのを待って、手当してもらった方が良いかもしれない。
となれば、一旦自室に戻らないと。ポルテが朝の挨拶に来た時、私が部屋にいなければ、大騒ぎになってしまう。
「今、何時かしら。早く戻らなきゃ……」
立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、激痛が走り、小さく呻く。刹那、唐突に体が持ち上げられた。
「え? なに?」
驚いて周囲を見回す。すると、私はどうやら、誰かの逞しい腕によって抱え上げられたようだった。
でも、こんなタイミング良く、一体誰が?
自分を抱き抱えてくれている人物が誰だか確かめようと、恐る恐る視線を上げた私の瞳に映ったのは──。
「だ、旦那様っ!?」
そう、邸宅内で最も可能性の低い人物である、リーゲル様その人だったのだ。
あまりにも信じられなくて、ひっくり返った奇妙な声を発してしまったせいで、変な生き物を見るような目を向けられてしまったけれど。今はそんなことを気にしてる場合じゃない。
「な、な、ななななな何故旦那様が? お、お、おろしてくださいいぃぃぃぃ」
心臓が口から飛び出るほど驚いた後は、嬉しいんだか恥ずかしいんだかよく分からない、ごちゃごちゃの気持ちになって下ろして欲しいと懇願する。
だってだって、重いと思われたら自殺するしかないし、こんなに近くで顔を見られたら、色々な粗が隠しきれない。寝て起きたそのままの状態で出て来てしまったから、お化粧も何もしてないし。──なのに。
「足を捻ったんだろう? 無理は良くない。大人しくしているが良い」
リーゲル様はそう言って、そのまま邸内に戻り、何処かへ向かって歩き出してしまう。
これは一体どういうことなの? 私を嫌っていたリーゲル様が、何処ぞの王子様のように私をお姫様抱っこしているなんて。
幸せすぎて、もう死んでもいいという気持ちと、この光景を目の前から見たいという気持ち。更には、痩せて見えるけど実は逞しいリーゲル様の胸に、頬を擦り寄せたいなどという気持ちがないまぜになり、どうしたら良いのか分からなくなる。
なんでなんでリーゲル様が? こんな時間に起きてるのもびっくりだけど、どうして私を抱え上げていらっしゃるの? 私とは邸内で顔を合わせることすら避けていらっしゃったはずなのに。
けれどそこで(あ、違う)と思う。
そういえば最近のリーゲル様は、偶に食事を私と同じ時間にとるようになっていたんだった。
それは、朝食だったり夕食だったり日によって違うし、今までのように一度も顔を合わせない日も当然あるから、偶然かどうか、確証を得られずにいたのだけれど。
考えてみれば私達は、結婚してから一ヶ月以上も邸内で顔を合わせることがなかったのだ。なのに最近になって急に顔を合わせるようになったということは、間違いなくリーゲル様が私を避けるのをやめたということなんだろう。
でも、どうして急に?
この前私の浮気騒動があったばかりだから、放置し過ぎだったことを反省してくれたとか?
いやでも反省したわりに、ただ食事を一緒にとるだけで、会話のかの字もないから、そういうわけでもない……のかな?
分からない。分からないけど、それでも食事を一緒にとってくれるようになっただけでも良しということにしよう。
私にとっては、動くリーゲル様のお姿を偶に拝見できるだけでも、無上の喜びなのだから。
などと考えていたら、私の体は優しくソファの上に下ろされてしまった。
あっ! ちょ、やだ! 色々考え事に夢中になってたせいで、せっかくのリーゲル様の腕の中を堪能してない!
激しい後悔が、一気に頭の中を埋め尽くす。
「や、リーゲル様!」
彼の腕が離れそうになった時、だから私は思わず、名前を呼んで彼の腕を掴んでしまった。
どうしよう。
一度掴んでしまった以上、今更離すのもおかしいような気がする。
しかも名前まで呼んでしまった。貴族の名前は本人から許可をいただかなければ口にしてはいけないのに、心の中でいつも名前呼びをしているせいで、ついポロッと口から飛び出してしまった。
どうしよう、どうしよう……。
「ええと、あの、その、えっと……」
とにかく何か言わなければ、と焦って口を開くも、そう都合よく言葉なんて出るわけがない。
困りに困って、それでも必死に何か言おうと口をぱくぱくさせていると──。
不意に、リーゲル様が微笑った。
それは、優しい微笑みなどではなく、どちらかというと吹き出すのを堪えているような、そんな微妙な笑みだったけれど。
「お前……あ、いや、グラディス、す、すまない……」
態とらしいほど明らかに私から顔を逸らし、両肩を震わせる。
あれは……笑っているの? 後ろを向いて顔を隠されているけれど、あれは間違いなく笑われているわよね?
何故? と思うが、理由は分からない。
肩を震わせて笑うリーゲル様──というより、笑顔のリーゲル様──なんて見たことないから、できれば拝見したいけれど、それは無理そうだ。
でも、本当にどうして突然?
「あの、旦那様……?」
不思議に思い、控えめにそっと声をかけると、リーゲル様は咳払いを一つした後、私の方へと向き直った。その時は既に、いつも通りの無表情へと戻っていて。
咳払いが、通常モードに戻るスイッチにでもなってるのかしら?
などと訝しむ私に、彼は若干言いにくそうに、こう告げた。
「グラディス、私達は、その……夫婦なのだから、君も私を『旦那様』ではなく、名前で呼ぶと良い。その方が……より親密に見えるだろう」
「えっ!? 良いのですか?」
まさかリーゲル様の方から、名前呼びのことを言い出して下さるなんて思わなかった。
しかも拒否するのではなく、許可! して下さるなんて嬉しすぎる。
さっきは調子にのったせいで足を挫いたと思ったけれど、これではまた調子にのってしまうじゃないの。
駄目よ、駄目、私、落ち着いて。
自分が調子にのらないよう、冷静になるよう懸命に努める。
だというのに、リーゲル様はそんな私の努力を無にするような発言を重ねてしてきたのだ。
「良いもなにも、夫婦なのだから当然だ。それから、舞踏会についてだが……待ちに待つほど好きだというのなら、近々別のものに連れて行く。だから今日は家で大人しくしていろ。先方には私から断りを入れておくから。分かったな」
「で、でも、お断りして大丈夫なのですか? それに、私が舞踏会を待ちに待ってたということを何で知って──」
「あれ程大きい声で呟いていれば、嫌でも聞こえる。あと、妻の怪我をおしてまで舞踏会に出席する必要はない。以上だ」
侍女を呼んで来る、と言い置いて、リーゲル様は部屋から出て行ってしまう。
ポツンと一人残された私は、朝の独り言を彼に聞かれていた恥ずかしさと、まともな妻扱いをされた嬉しさとで、一人、ソファの上で悶絶したのだった。




