2話 悪魔の契約
「ふん。気に喰わないけど、人間の作法に則って、礼を言うべきところなのだろうな。
そりゃ構わないさ。けど。
……あんたは2つ、嘘をついている」
悪魔の深淵をのぞきこむがごとく黒い瞳が、クリムを見据えていた。
「1つ。あたしのことを歓迎なんてしていなってこと。
もう1つ。……実は内心、がっかりしてる。
あんたは切ったはったの世界が好きなんだ。平和主義の無害そうなツラをして、その実血に飢えた狼をその内に宿してる。解き放ちたくてウズウズしてる。戦いを渇望してる」
ごくり、とクリムの喉が鳴った。
しばしの沈黙――。
「……誤解だよ。僕の願いは世界平和だけだ」
「ま、どっちでもいいけどさ。人間が嘘をつくのは珍しいことじゃない。
違うな、本心に気づいてないだけか。どちらにせよ、サーガにはありきたりな出来事ばかりだ」
クリムがそれに反論しないで居ると――。
ニーナがずいい、と前に歩み出てきた。
「クリムさま。私、あの女嫌いです!」
「ま、まあ。落ち着いて」
「落ち着けないです! 何様ですか!
止めないでください、極大呪文で魂ごと浄化させてやるんだから――」
ニーナはぶんぶんと両手をふりまわし、クリムは苦笑しながらそれを羽交い絞めにしておさえている。
「……きゃーきゃー騒ぎやがって、ニワトリ女が」
「な、ん、で、す、ってー!!!」
「卵産むぶんだけ、まだニワトリのほうがマシだぜ」
「クリムさま! 私いま侮辱されました!
許せない! こんなカラスみたいな黒ずくめの女に言われるなんて!
来世まで後悔させてやります!」
「まあまあ、落ち着いて」
「そうだ、落ち着けよ。
ところで、クリムと言ったか」
「はい。ええと、ステラさん」
「ステラでいいよ。さっそくで悪いんだが、頼みがある」
「人を襲わないと約束してもらえるなら」
「あー、構わないぜ。ま、悪魔との約束にどれほどの義理があるのか、知らねーけど。
ちょっとこっちに来てくんねーか」
言われるがままに、クリムはステラに近寄った。……その様子を、ニーナは今にもかみつきそうな様子で見つめている。
クリムはニコニコと無防備である。そんな様子が、かえってニーナの心をいらだたせるのだが――。
「ちょっとしゃがんでくれ」
「しゃがむ……こうですか」
「まだだ。あたしの顔をのぞきこむように」
「こんな……感じですかね」
クリムはステラに顔を寄せた。なんだかやんごとなき雰囲気である、とニーナは自身の警戒心をマックスにした。しかしどこかで、まさかそんなことをするわけはないだろう、とタカをくくっていた。甘く見ていた。相手は悪魔なのだ。
ステラは両手を素早くクリムの頭の後ろに回すと、抱きかかえるようにして、唇を奪った。
1秒、2秒。永遠とも思える時が流れ、ステラは唇を離す。
その場にいた誰もが動けずに居た。クリムは呆然として立ち尽くしていた。ニーナは顔を真っ赤にして、「こんの悪魔畜生がーーーー」と思ったけれども、感情が先走り過ぎて行動が伴わなかった。一人超然としていたのはステラである。
ステラはぽん、とむき出しの腹部をさすると、不満そうにため息を一つ。
「……これでも魔力の10分の1にも満たない、か。
お前けっこう魔力を持ってそうだから、期待したんだが。
やっぱ口移しとなるとこれ以上の魔力供給は厳しいか――」
「な、な、なにをしてるんです!」
「まあ、でも見たところ粘膜接種なら直にイタダけそうな気はするんだよなぁ。
おまえ、ちょっと向こうに行こうぜ」
ステラはいまだ放心しているクリムの腕をつかみ、物陰へ連れこもうとした。
が、しかし、その腕をニーナが握りしめている――。
「なにをなさるつもりかしら? このカラス女は」
「おお、ニワトリ。まだいたのか。もう行っていいぞ。お前の魔力はマズそうだ。
用はない」
「クリムさまに何をするつもりなの!」
「何ってそりゃ、アレだよ。人間でいうところの……交尾だよ、交尾。
みんなしてることだろ」
「あなた、そんな、破廉恥、」
ニーナは顔を真っ赤に上気させた。
「まあお前はまだかもしれないけどな」
「大きなお世話です!」
「ははは」
「笑いごとじゃない!」
ニーナの金切り声で、放心状態のクリムが目を覚ました。
クリムは自分を取り巻く状況の理解に少し時間がかかり――、右手をステラに捕まれ、左腕をニーナにつかまれ、二人はまるで綱引きのようにクリムを引っ張っていたのだ――、優しく二人の手を振り払った。それから、自分の衣服の埃をはらい、乱れを直すと、ニーナとステラの顔を交互に見やった。
「二人とも落ち着いて」
「あたしは落ち着いてるぞ。このニワトリ女がうるさいだけで」
「ニワトリじゃない! 泥棒猫のカラスのくせに!」
「ええと……」
一向にやむ気配のない口論に、頭痛を感じながら、
「……ステラ。何ごともいきなりはよくないですよ」
「む。それじゃあ一言言えばいいのか。なあ、むこうで交尾しようぜ」
「交尾交尾って、盛りのついたメス猫みたいに――!」
「ニーナ。ここは神の御前です。あまり汚い言葉を使ってはなりませんよ」
クリムに諭され、ニーナはしゅんとうなだれる。
「……でも、クリムさまが心配で」
「何も心配はありません。不意をつかれたので少々ぼうっとしてしまいましたが――。
これもステラが生きるためと思えば、何のことはない。滅私奉公。教えの一つとしてありましたよ」
「うう。クリムさまがそうおっしゃるのなら」
「なあ、話は終わったか。終わったら向こうに行ってしようぜ」
「ステラ……。そういうのは、愛する男女がするものですよ」
「うわー、でたぞこれ! 愛とか恋とか、人間特有のめんどくさいやつだ!
あたしは悪魔なんだから知るかってんだ! いいから食わせろ! 生き死にがかかってんだ!」
ステラはちらり、とニーナを横目に見た。
「それとも」
「何よ」
ニーナは憮然と答える。
ステラは視線を自分の体に、具体的に言えば豊満な胸の上に落とし、ため息をついた。
「小さいほうが好みなのか。こればっかりはどうしようもないからなあ。
オスはみんな大きいのが好きだと思ってたけど、違うんだなあ。人間って不思議だ」
「なんですって――!!!」
「ステラ、やめなさい」
「大きいのが嫌いなんだろう」
「いえいえ、好きですよ――っと、そうじゃなくって」
クリムは一瞬死の気配を感じた。背中を冷や汗が流れ落ちる。かすかに手がふるえている。こんなことは魔王と戦ったとき以来だ。
「これは交換条件でもあるのです。
僕たちもまだ完全に信用したわけじゃない。あなたが傍若無人に振舞えるぐらいに回復されたら、困るのです。生きる最低限度の魔力は保証しますが、それ以上は――」
「なるほどな」
ステラはにやりと口元をゆがめた。
「悪魔と取引しようってんだな」
「平たく言えば」
「オッケー、かまわねー。こっちも暴れるほどの元気は残ってないんだ。
ここでお前から死ぬほど吸い尽くしてやってもいいが、その後困る。なんせお前の魔力があたしの体に適応しちまったみたいだからな」
「納得してくれましたか」
「止むなし」
ステラの瞳の奥が、光った。
「ただし、もうお前は悪魔との契約を終えたんだ。
せーぜー、喰われないように気をつけな」
〇
その後クリムは、激情のおさまらないニーナをなんとか言いくるめ、今度の安息日にいっしょにブドウ狩りに出かけることを約束させられ、「私……まだ、おっきくなりますから!」と笑顔で手をふるニーナに手を振り返す。
一方、ステラには屋根裏部屋の一室を貸し与えることにした。しばらく使われておらず、埃もすごいが、日がな一日薄暗いその場所が気に入ったようで「くくく」と奇妙な歓喜の笑みを漏らしていた。
自室に戻り、脱力する。
羽織っていたローブを脱ぎ、壁にかける。
握っていた杖を机に立てかける。
その時、左腕に奇妙な模様が浮き出ていることに気づいた。
「これは一体――」
線は一定の法則をもって描かれているように見え、見知らぬ異国の言語のようにも思われる。口頭で軽く「解呪」の呪文を唱えてみるが、模様に影響はない。クリムは解呪の系統の魔法が得意ではないのだが――。
悪魔との契約、か。
少なくとも今現在、何かに侵されているといった気配はない。
ステラの目的はまだ分からないが、悪いやつではなさそうだ。
生かさず殺さず、飼い慣らしてやればいい―― 。 。
飼い慣らす?
クリムは自分の脳裏に浮かんだ、思いもかけない言葉に驚いていた。
誰が、誰を飼うというのだ。相手は悪魔だ。見た目は人間だ。それを「飼う」などと高慢ではないのか。
いや、もっと本能的な攻撃的な欲求が自分に潜んでいることに気づき、驚いていた。
『嘘をついている』
日中のステラの言葉が思い返される。
『それとも本心に気づいてないだけか』
それが、本心であるわけがない。
『喰われないように』
せいぜい気をつけると、しよう。
両手を合わせ目をつむり、一心不乱に祝詞をつむぐ。
世界のため。平和のため。恵まれない子供のため。
主を称え、世界を褒める祝詞は一定のリズムを持って、身体に心地よく響く。
クリムはまるで祝詞を覚えたての若き修行僧のように、繰り返し、繰り返し、その言葉を繰り返したのだった。