第十九話 【二階層】平家の怨念
──ベン
「ようこそ。お待ちしておりました」
琵琶の音が途切れた。その一瞬の静寂を縫うように、穏やかな声が響く。
木々のざわめきだけが耳についた。
森に埋もれるように隠されていた神社の参道の中央、そこには一人の男の姿か座っていた。
ぼんやりと浮かび上がったのは、一人の琵琶法師の姿──耳なし芳一だった。本来耳があるべき場所には、ぽっかりと赤黒いものがのぞいている。
「いやいや、はてはて。これは嬉しい」
嬉しいと言う言葉とは裏腹に、芳一の表情はピクリとも動かない。
「ここに人が来るのは……初めてですね」
「やっぱり……」
「おや? 知っていたのですか? 可笑しいですね……」
俺の言葉に芳一が首を傾げる。
耳の傷口からつう、と赤黒い血が首筋を伝い、黒ずんだ法衣へと染み込んでいった。それにも関わらず、痛みなど感じていないかのように、芳一は抑揚のない声を淡々と響かせる。
姿形は人間そのもの。
それなのに、落武者たちとは違う意味で、生者の気配がまるでなかった。
──これじゃ、ただの怨霊じゃないか。
ぞくり、と冷たいものが背筋を這い上がる。そんな俺の様子など気にもせず、芳一は淡々と話し続けた。
「ふむ。妖狐の二人ですかな……?」
"妖狐"という単語に思わず肩が揺れた。
可愛らしい二人の案内人の姿が頭によぎり、彼らに濡れ衣を着せるわけにはいかないと慌てて口を開いた。
「いや、俺が気づいた後にそれっぽいことを漏らしただけだけど」
「ほう? まぁいいでしょう。そういうことにしておきます。そんなことより、久方ぶりのお客様です。歓迎いたしますよ?」
芳一が、ゆらりとした動きで琵琶を構えた。
──べベン
その途端、鳴り響いた一音に呼応するように見えない波紋が空間を震わせた。ビリッと肌を刺す霊威に、俺たちの背筋は自然と伸びる。
来る。
「それでは。一千年の時を超えた怨霊たちの旋律をお楽しみください」
──ベン、ベン、ベン
一定間隔で語られ始めた語り部は、次第に熱が増していく。
それに混じり、「苦しい……寂しい……」「冷たい……」と海辺では聞こえなかった落武者たちの声が聞こえ始めた。
「雷華、風華」
俺の呼びかけに、雷華が頷いた。
「ん。あのおじさんを倒せばいいんだよね?」
「おじさんって……」
かの有名な"耳なし芳一"も、雷神の前ではただのおじさんらしい。
「芳一を倒せば落武者たちの無念が晴れて成仏する。恐らく、それが試練の達成条件だ」
「分かった。私と雷華は落武者たちに集中するから、蒼真が芳一をよろしく」
俺の指示に風華が小さく応えた。その目は芳一の周囲から湧き出てきている落武者たちに向けられ、暗い光を放っていた。
「頼んだ」
「頼まれた!」
元気な返事をした雷華が地面を蹴った。
ガシャガシャと鎧を揺らしながら向かってくる落武者たちに雷の刃を向ける。
先ほどまでは一撃で倒れていた落武者たち──
──バキィッ
「は⁉︎」
「え、なんで⁉︎」
雷華の雷撃が直撃した筈の落武者は、微かによろめいたものの足を止めずに進んでくる。
「ここは法師の領域だ!気をつけろっ」
「え、強化されてるってこと!」
「源平の国争ひ、今日を限りとぞ見えたりける」
(源氏と平家の国を巡っての争いは、今日が最後と見えた)
──ベン
芳一が一際高く唄い上げ、琵琶を打ち鳴らした瞬間。
落武者たちの動きがぴたりと止まった。
全ての生き物が固唾を飲んで見守っているような重圧に身体がズンと重くなる。
動かなくては──そう思った瞬間だった。
「平家の無念、ご賞味あれ」
訪れた一瞬の静寂。その静寂を破ったのは、穏やかとも取れる芳一の静かな声だった。
落武者たちの奥に座る芳一と視線が絡む。
恐ろしいほど穏やかな目だった。
その瞳だけを見れば、どこにでもいる物静かな僧侶にしか見えない。
──だが、その奥で燃えるものだけは違った。
ゆらり、と赤い熱が揺らめく。
千年という歳月を経てもなお消えぬ怨念。その紅い灯火は、落武者たちの眼窩に宿る赤い光と同じ色をしていた。




