第二話 共有した瞬間、死が成立する
死体が一つ転がるだけで、人間はあっさり配置を変える。
真壁彰は、床に広がった血を見下ろしながら、その変化を肌で感じていた。
赤いコートの女が倒れてから、まだ十分も経っていない。だがホールに立つ人間たちの距離は、到着直後とはもう違っていた。誰もが自分の両脇を気にしている。誰のそばに立つか、誰と視線を交わすか、誰に名前を覚えられるか。その一つ一つが、今は致命傷になりそうだった。
真壁は女の遺体から立ち上がり、ホール全体を見渡した。
「全員、そこから動くな」
声を張ると、数人がびくりと肩を震わせた。だが従順に頷いたのは半分にも満たない。中年の男が顔をしかめ、白髪の老紳士は不快そうに眉を寄せる。館内放送で死を宣告された直後に、見知らぬ男から指示を飛ばされて気分のいい人間はいない。
「警察の方なんですか」
眼鏡の若い女が言った。声は震えていたが、壊れてはいなかった。
「警察だ」
正確には所属も階級も説明すべきだが、今はそれで足りる。真壁は続けた。
「救助はまだ呼べてない。外線は死んでる。携帯も圏外だ。だからまず、誰も一人で動かない。勝手に部屋へ戻るな。トイレもできるだけ単独で行くな」
「そんなの無理でしょう」
反発したのは、会社役員めいた顔つきの男だった。五十代前半、濃紺のスーツに金縁の眼鏡。最初から周囲を見下ろすような立ち方をしていた男だ。
「ここで立ち尽くしてろって? 人が死んでるんですよ」
「だからだ」
真壁が言うと、男は口を噤んだ。
「ここで何が起きてるかわからない以上、ばらける方が危険だ」
「危険なのは、さっきの放送を信じて犯人探しを始めることじゃないの」
二階堂壮也が、フロント脇から戻ってきながら口を挟んだ。声音は軽いが、目が笑っていない。
「言っとくけど、今の時点で『あいつが怪しい』『いやこっちだ』って始めたら、あの放送の思う壺だよ」
その一言に、ホールの空気がまた硬くなった。
誰も言っていない。けれど全員が、もう内心では誰かを怪しみ始めている。さっき赤いコートの女に犯人呼ばわりされた痩せた男など、ほとんど壁と一体化する勢いで端に寄っていた。顔色は土のように悪い。
九条雅紀は女の遺体の脇にしゃがんだまま、何も言わず指先を見ていた。白い指に、女の薄い血が少しついている。
「九条」
真壁が低く呼ぶと、九条は顔を上げた。
「何」
「どうだ」
「見たまま」
「それ以上は」
「言わない」
素直な返事だったが、九条の目はそう言っていなかった。もう先を見ている目だった。死因の先。ルールの先。館の仕組みの先。あの目のまま一人で動かせるのはまずいと、真壁は思った。
二階堂がホール中央へ歩み出る。
「とりあえず、名前だけ確認しようか。全員、誰が誰かわからないまま疑うのが一番まずい」
「疑う前提で言うな」
真壁が返すと、二階堂は肩を竦めた。
「疑ってない人、ここにいる?」
返事はなかった。
それが答えだった。
結局、参加者たちは不承不承ながらホール中央に集められた。女の遺体だけが少し離れた床に残る。布でも掛けたいところだったが、迂闊に動かしたくなかった。九条もそれをわかっているのか、少し離れた場所へ立ち、手袋をつけ直していた。
名前の確認はぎこちなかった。誰もが名乗る声を少し抑えている。名乗ったことで何かを与えすぎるのではないかという、意味のない警戒がすでに始まっていた。
会社役員風の男は鷹野孝弘。
眼鏡の若い女は三枝理沙。
白髪の老紳士は岸辺篤郎。
大学教授のような男は神谷誠一。
痩せた男は村瀬達也。
他にも何人かが名を告げたが、真壁はまず顔と声を一致させることを優先した。全員を細かく覚える余裕はない。
名乗り終えたころには、ホールの暖かさが逆に不快になっていた。薪の燃える音がやけに大きい。誰かの呼吸、靴底のきしみ、服の擦れる音まで聞こえる。
「館の人間はいないのか」
老紳士の岸辺が言う。
「支配人でも使用人でもいい。誰か説明すべきだろう」
「さっきの放送が説明のつもりなんじゃない」
三枝理沙が青い顔で答えた。
「説明っていうか、脅しだけど」
「脅しに従う必要はない」
鷹野が鋭く言う。
「人が一人死んだのは事実だが、それが放送と関係あるとは限らない。あの女はパニックを起こして転倒した。それだけかもしれない」
「じゃあ、あんたは今後もここで誰かを犯人って言えるのかよ」
村瀬達也が絞り出すように言った。壁際から一歩も動かず、目だけが血走っている。
「俺はさっき、あの女に名指しされたんだぞ。次は誰だよ。誰が適当に言われて、誰が死ぬんだよ」
「落ち着いて」
三枝が言う。だが彼女自身、落ち着いていない。
神谷誠一が眼鏡の位置を直した。
「重要なのは因果関係です。放送の直後に死亡が起きた。それだけではルールが真だとは言えない。だが否定もできない。なら、検証可能な範囲を探るべきです」
「検証?」
二階堂が反応した。
「何をどう検証するの。今ここで、もう一人に犯人って言わせる?」
「私はそうは言っていない」
「でも頭の中ではそういう話でしょ」
神谷は二階堂を睨んだ。二階堂は笑いもしない。
真壁は会話の流れを断ち切るように言った。
「今は全員、ホールに残る。食堂と厨房を確認して、水と毛布を持ってくる。二階堂」
「はいはい」
「九条」
「行けって?」
「俺と来い」
九条は一瞬だけ不満そうな顔をしたが、すぐに立ち上がった。
「だったら遺体のそば離れる前に、せめて見える範囲だけ見る」
「短くしろ」
「わかってる」
真壁は二階堂と目を合わせた。二階堂はそれだけで意図を読んだらしく、参加者たちの側へ残る。
「みんな、急に孤独になりたいのはわかるけど、今一人になった人から怪しく見えるからね。やめといた方がいいよ」
「脅してるのか」
鷹野が言う。
「逆。親切」
そう返す声は軽い。だがその軽さの裏に、二階堂が場を必死で押さえているのが真壁にはわかった。
真壁は九条を連れてホールの隅へ移動した。遺体はまだ視界に入る位置にある。九条はしゃがみ込まず、少し離れた角度から女を見た。
「言え」
「転倒死だけで片づけるには不自然」
「どこが」
「崩れる前、一回完全に力が抜けてる。脚がもつれたとかじゃなくて、全身の出力が切れてる感じ」
「失神か」
「失神なら前兆がもう少し出る。呼吸の乱れとか、体勢の崩し方とか。でもさっきのは違う。首と肩が先に落ちて、それから脚が追いついてない」
九条の視線は遺体から外れない。
「あと、打ちどころだけじゃ死ぬには速すぎる。もちろんあり得るけど、あの落ち方の直前に別の異常があった可能性の方が高い」
「毒か」
「わからない。ただ、そういう“何かが起きた”感じはある」
真壁は黙った。九条は横目で彼を見る。
「さっき俺が言いかけたこと、気になる?」
「気になる」
「でも言うなって止めた」
「今も止める」
「何で」
真壁は少し間を置いた。
「お前、自分がどこまで見えてるか顔に出る」
「出してるつもりないけど」
「出てる」
九条が息を吐く。
「真壁、それ、今この館で一番嫌な指摘だな」
「だからだ」
九条は口を閉じた。反論したいのはわかる。けれど完全には否定できないのだろう。九条は自分が何かを掴んだ時、ほんの少し目の焦点が変わる。それを真壁は昔から知っている。
「とにかく、一人で先に行くな」
「行く気なくても見えるんだよ」
「見えても一人で処理するな」
「共有するなってルールかもしれないのに?」
「だから今は、結論を口にするなって言ってる」
九条は少し黙り、やがて小さく言った。
「お前、さっきからずっと、言うなと考えるなを分けてる」
「当たり前だろ」
「じゃあ、お前も同じこと思ってるんだ」
「何をだ」
「この館が見てるのは、言葉だけじゃないかもしれないって」
真壁はすぐには答えなかった。
九条の目が細くなる。
「それ以上は言わないよ。今は」
「助かる」
「でも、もし次に何か起きたら」
「その時考える」
「遅いと死ぬ」
「早くても死ぬかもしれない」
九条は口元だけで笑った。まるで笑っていない顔だった。
食堂の確認はすぐ終わった。館に人の気配はない。厨房にはまだ温かいスープの鍋が残っていた。誰かがついさっきまでそこにいたような温度なのに、姿だけがない。真壁はその気味の悪さを覚えた。逃げたという感じではない。最初から、人目に触れるつもりがなかったような消え方だ。
水と毛布を抱えてホールへ戻ると、空気はさらに悪くなっていた。
誰も大声では喋っていない。だが沈黙の濃さが変わっている。二階堂が参加者たちの中心にいるのに、空気が散っていない。むしろどこかで別の流れが生まれている。
二階堂は真壁を見るなり、ごくわずかに顎を動かした。左奥の廊下。真壁が視線だけ向けると、食堂脇へ続く短い通路の角に、三枝理沙と鷹野孝弘の姿が一瞬だけ見えた。すぐに引っ込む。
真壁の眉が動く。
二階堂が毛布を受け取るふりをしながら低く言った。
「さっきからあの二人、二回離れた」
「何話してる」
「聞こえない。でも、あの子の顔が変わった。良くない方に」
真壁はすぐ動こうとしたが、同時に岸辺老紳士が声を荒げた。
「毛布はどうした! このまま床に寝かせておくつもりか」
遺体のことだ。真壁がそちらへ意識を向けざるを得ない、その一拍の遅れがまずかった。
左奥の通路から、短い悲鳴が上がった。
真壁は走った。九条と二階堂もほぼ同時に動く。通路を曲がると、三枝理沙が壁に背をつけて座り込んでいた。目の前に、鷹野孝弘が倒れている。
体勢が妙だった。うつ伏せでも仰向けでもない。横倒しになりかけたまま、片手だけが前へ伸びている。何かを掴もうとしたように。
「下がれ」
真壁が言うと、三枝は半狂乱で首を振った。
「私、何もしてない、何もしてないです」
「わかってる。下がれ」
「違う、そうじゃなくて、私、ほんとに、ただ、さっきのことを」
声がひきつって途切れる。真壁はその横を抜け、鷹野の脈を確認した。ない。呼吸もない。瞳は見開き、唇の色が急速に失われている。
九条が膝をつく。今度は真壁も止めなかった。九条の指が首筋、顎、口元を速くたどる。
「どう」
「まだ温かい」
「死因は」
「今すぐは断定できない。でも――」
九条が一瞬、三枝を見る。真壁はその視線の意味に気づく。
「何話した」
三枝は泣きそうな顔で真壁を見た。
「わ、私、あの、鷹野さんが、さっきの女の人のこと……」
「落ち着け。順番に言え」
「さっきの女の人、転んだだけじゃないんじゃないかって。誰かが、何かしたんじゃないかって。そしたら鷹野さんが、村瀬って人は目立たせるためで、本当に怪しいのは別にいるかもしれないって……」
二階堂が低く息を吐いた。
真壁の背中を冷たいものが撫でる。
共有した。
推理を。
しかも二人で。
三枝はなおも言い募る。
「でも、ただ話しただけなんです。犯人だって決めたわけじゃない。そんな、そんなので」
その時だった。
館内のどこかで、あの低い起動音が鳴った。
三枝の顔から色が消える。真壁も、九条も、二階堂も動きを止めた。ホールの方から悲鳴に近いざわめきが聞こえる。放送は館全体へ流れているはずだ。
加工された平坦な声が、頭上から降ってきた。
『ルールの追加です』
声は抑揚を持たない。だからこそ、内容だけが鋭く刺さった。
『推理を他者と共有した時点で、死亡条件が成立します』
三枝が小さく息を呑む。
『会話、筆談、録音、通信機器による伝達、伝言を含みます』
「そんな……」
三枝の唇が震えた。
『死亡条件成立後、執行の時点は当館が決定します』
二階堂が、ほとんど聞こえない声で「やっぱり遅延型」と呟いた。
『なお、第一ルールは継続しています。犯人を当てた者から死んでいきます』
放送はそこで切れた。
通路に、誰の呼吸もない数秒が落ちる。
三枝が自分の口を両手で塞いだ。その仕草があまりに切実で、真壁は一瞬だけ目を逸らしそうになった。もう遅いと、本人もわかっているのだろう。
「私……死ぬんですか」
答えられる人間はいない。
真壁は立ち上がった。
「ホールへ戻る」
「私、嫌です、嫌……」
「一人にしない」
その一言だけは強く言った。
三枝は泣きながら頷いた。真壁が腕を取ると、体が紙みたいに軽かった。
ホールへ戻ると、参加者たちの顔つきが完全に変わっていた。
ルールが増えた。しかも想像よりずっと狭く、ずっと悪質な方向に。もう犯人を名指しする以前の問題ではない。考えを誰かに伝えた時点で死が成立する。言葉だけでなく、文字も録音も駄目。つまり、この館は会話そのものを切断し始めたのだ。
村瀬達也が額に脂汗を浮かべている。神谷誠一は唇を結び、明らかに頭の中でルールの境界を計算していた。岸辺老紳士は椅子へ崩れるように座り込み、「じゃあ黙っていればいいんだな」と半ば自分に言い聞かせるように呟く。
「そう単純じゃないかもね」
二階堂が言った。
全員の視線が集まる。二階堂は片手を上げた。
「安心して。推理は共有しない。今のは感想」
「感想と推理の違いがどこにあるんだ!」
神谷が鋭く言う。
「それを決めるのは向こうってことだろう」
二階堂はモニターを見た。
「最悪だよ」
真壁は二階堂を睨んだ。刺激しすぎるなと言いたかったが、もう遅い。参加者たちは今さら誰かの機嫌で落ち着ける段階ではない。
九条が遅れてホールへ戻ってきた。さっきまでの通路で、鷹野の遺体を短く見ていたのだ。真壁の隣に立つと、低い声で言った。
「最初の人と同じだ」
「何が」
「死ぬ前に、一回落ちてる。出力が切れてる。外傷は後追い」
「原因は」
「まだわからない」
「他には」
九条は少し黙った。
「共有が成立してから、執行までに間がある」
「それは放送で言った」
「そうじゃなくて、身体にも残り方がある。即死じゃない。判定されたあと、回収まで猶予がある」
真壁はその言葉を反芻した。
判定。回収。
九条がもう、そういう見方をし始めている。
「今の、他のやつには言うな」
「言ってない」
「二階堂にも」
横で二階堂が眉を上げた。
「ひどいなあ」
「お前は聞こえてるだろ」
「聞こえてる。でも今のは共有っていうより、独り言に巻き込まれた感じ」
「じゃあ巻き込まれるな」
「難題ばっか出すね、真壁くん」
二階堂はそう言って、ホール全体を一巡見る。
「でもまあ、方針は決まった」
「何だ」
「喋らせない」
その言い方に、何人かが顔をしかめた。
「命令する気か」
神谷が言う。
「命令っていうか提案。いや、今は命令に近いかな」
二階堂の口調は軽いままなのに、目だけが冷えた。
「ここから先、誰かと二人でこそこそ喋るの禁止。筆談も禁止。メモも禁止。スマホ触るのもできればやめて。見た側が『今あいつ、何か伝えた?』って思う時点で、もうこの館のルールに乗ってる」
「そんなことまで」
三枝が震える声で言った。
「じゃないと、また死ぬよ」
二階堂は言い切った。
真壁はその言葉を止めなかった。止める余地がない。事実だからだ。
「食堂を使う」
真壁が全員へ向き直る。
「ホールより見通しがいい。入口も少ない。今夜は全員、できるだけ同じ空間にいる。単独行動は禁止だ」
「寝る時はどうする」
岸辺が聞く。
「順番に見張る。部屋は後で確認する」
「あなたたちは、何かわかってるのか」
神谷の視線が鋭く向く。真壁ではなく、九条と二階堂へだ。
「わかっているなら言うべきでしょう。今ここで最も危険なのは、情報を握っている者が黙ることだ」
その言葉に、九条の表情が一瞬だけ固くなった。真壁はすぐ間に入る。
「今、確定してるのはルールだけだ」
「確定?」
神谷が鼻で笑う。
「人が二人死んだ。これは事実だ。だが、それをルールと呼んだ瞬間、こちらは向こうの土俵に乗る」
「だったら何て呼ぶ」
「仕組みでも罠でも好きにしろ。だが、今ここで誰かが何かを“わかった顔”で喋り出す方が危ない」
神谷は真壁を見たあと、九条へ目を向けた。その目に宿る探る色を、真壁は見逃さなかった。
この場には、館の放送より早く、人間の方がルールへ適応し始めている者がいる。
それが一番厄介だった。
食堂への移動は、まるで避難ではなく移送だった。誰もが前後左右を気にしている。二人きりにならないよう、逆に詰めすぎないよう、妙にぎこちない列ができる。二階堂が先頭に立ち、真壁が最後尾につく。九条は途中、自然に中央へ入った。自分が一人で端へ寄るのを避けたのだろう。
食堂は長いテーブルが二つ並ぶ広い部屋だった。窓の外はもう暗い。雪がわずかに反射して、夜の山をぼんやり白くしている。
真壁は全員を座らせ、厨房から持ってきた水とスープを配った。誰も味など気にしていない。それでも、何かを口に運ぶだけで人間は少しだけ壊れにくくなる。真壁はそれを経験で知っていた。
九条はスープにほとんど手をつけず、遠くの壁を見ていた。二階堂はその隣ではなく、あえて一つ空けた席に座る。近づきすぎない。今はその方が安全だと理解しているのだろう。
「真壁」
九条が低く呼んだ。
「何だ」
「この館、死ぬ瞬間より前を見てる」
「……」
「いや、違うな。死ぬ瞬間じゃなくて、成立した瞬間を見てる」
「声が大きい」
「大きくしてない」
九条はそう言ってから、スプーンを置いた。
「共有した時点で成立、って言っただろ。じゃあ今後、向こうは“いつ成立したか”を知ってることになる。会話の中身だけじゃなくて、もっと細かく」
「だから言うな」
「まだ結論じゃない」
「お前の顔だと結論に見える」
九条が苛立ったように真壁を見る。だがその直後、横から二階堂がさりげなくパンを寄越した。九条は反射的に受け取る。
「食べな。考えてる顔が怖いから」
「お前に言われたくない」
「俺は怖くないよ。胡散臭いだけ」
そのくだらないやり取りに、何人かがわずかに顔を上げた。空気が少しだけ散る。真壁は内心で助かったと思った。二階堂はこういう時、意味のない会話を意味のある盾に変える。
だが盾は長く保たなかった。
食堂の端に座っていた村瀬達也が、急に椅子を引いた。全員がびくりとする。
「トイレ」
それだけ言って立ち上がる。
「一人は駄目だ」
真壁が言う。
「じゃあ誰か来てくれよ!」
村瀬の声は半分怒鳴り声だった。限界なのだろう。真壁は頷きかけたが、その前に岸辺老紳士が気まずそうに手を上げた。
「私も行きたい」
「二人で行け。五分で戻れ」
村瀬は不満そうだったが、結局それに従った。
二人が出ていったあと、食堂にはまた重い沈黙が戻る。
神谷誠一が、誰にともなく言った。
「推理を共有するな、か」
真壁の背が硬くなる。
神谷はなおも続ける。
「つまり、この館は、人間が他人と考えを重ねた瞬間を危険と見ているわけだ。奇妙ですね。普通の犯人なら、むしろ一人で考え込む人間の方を恐れるはずだ」
「先生」
二階堂が柔らかく口を挟む。
「今の、かなり危ない独り言だよ」
「独り言だ」
「聞いてる人がいる時点で、独り言って成立しにくいんだよね」
神谷は黙った。だがその表情には、不満より先に好奇心があった。厄介な顔だと真壁は思う。怖がるより先に構造を知りたがる人間は、この館では長生きしない。
真壁は立ち上がった。
「今夜の見張り順を決める」
実務を挟まなければ、この場はまた余計な思考に沈む。真壁は紙もメモも使えない状況で、頭の中だけで順番を組み始めた。
その時、九条がごく小さく言った。
「真壁」
「何だ」
「三人で同じこと考えるの、もう危ないかも」
真壁は一瞬だけ九条を見た。
その視線の先で、二階堂もこちらを見ていた。
三人の目が、ほとんど同時に交わる。
嫌な感覚が、背骨を上がった。
次の瞬間、館内のどこかで、またあの起動音が鳴った。
食堂中の空気が凍る。
放送ではなかった。壁の一角に埋め込まれていた小型モニターが、音もなく点灯する。白い画面に、短い文字だけが表示された。
適応を確認しました。
それだけだった。
けれど真壁は、その一文が放送より嫌だった。
向こうは見ている。
死んだ後ではなく、その前を。
言った後ではなく、その前を。
人間が、どうやって一つの考えへ近づいていくか、その足取りそのものを。
真壁はゆっくり息を吐いた。
まだ二人目だ。
だがこの館は、もう人がどう死ぬかではなく、どう考えるかを餌にし始めている。




