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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第53話:脳を侵す新魔球

第53話:脳を侵す新魔球


「打者のタイプを見極めろ。配球はそこから始まる」


 かつて野村克也はそう遺した。


 三振とは。球威の産物ではない。

 それは。徹底した相手理解から成る。知略の結晶だ。


 夏の神奈川大会4回戦。7回表。


 マウンドの上の景色は。酷く歪んでいた。

 刺すような陽光が。容赦なく照りつける。

 突き抜けるような。空の青。

 湿り気を含んだ。土の茶色。

 汗に濡れた。ユニフォームの白。

 それらが強烈な色彩となって。湊の網膜に焼き付く。

 熱気の中で。景色の輪郭が。陽炎のように微かに揺れていた。


 ベンチに座る3年生たちの視線は。まだ冷たい。

 だが。一塁ベース上の椛島が残した泥の熱が。確かにマウンドまで届いていた。

 スコアは2対2の同点。

 この回からマウンドに上がった一条湊を。横浜清稜高校のベンチは冷ややかに見つめていた。


「球速120キロ台の1年生ピッチャー」


 それが。彼らの持つデータのすべてだった。

 清稜の打者たちが。不敵に口元を歪める。

 格好の餌食だ。伝統校の機動力で。毟り取ってやる。そう確信している。

 清稜の1番バッターが。バッターボックスに入る。


 ザ。ザ。


 スパイクが。乾いた土を噛む音。

 その規則的な足音が。湊の耳元で。自らの鼓動のように不気味に響く。


 彼らは「静かなる略奪者」だ。

 わずかな隙を突き。マウンドの支配権を奪い取る。


 初球。打者はすっと腰を落とした。

 セーフティバントの構えだ。

 揺さぶるための。偽装ではない。本気で転がしにきている。


 湊は。帽子を深く被り直した。

 前髪の隙間から。美術部で培った観察眼が。打者を捉える。

 脳内で。打者の骨格をデッサンするように。その動きを素描する。

 バットを持つ手の角度。

 右膝の割れ方。

 重心の移動。

 わずか数ミリ。打者の重心が。前に傾いた。


「――直感型(赤)」


 湊の頭脳が。野村理論の打者分類を弾き出す。

 反応で打つタイプ。甘い球は逃さないが。タイミングのズレに脆い。


 湊は。小さく息を吐く。

 前腕の筋肉が。異常に跳ね上がった。

 試合前。ベンチ裏での特訓。

 指先の皮膚を硬化させるための。狂気的なマッサージ。

 爪が剥がれ。血が滲むまで。庭の壁にボールをぶつけ続けた10年間。

 その肉体的苦痛の記憶が。今も右腕の神経を鋭敏に尖らせている。

 脳の防衛本能リミッターが。これ以上の出力を拒むように。鈍い痛みを訴える。

 だが。今の湊を満たしているのは。恐怖ではない。

 父の呪縛に対する。そして理不尽な現実に対する。猛烈な「怒り」だ。


 セットポジションから。湊が動いた。

 ティム・リンスカムを彷彿とさせる。ダイナミックな跳躍。

 細身の身体からは想像もつかない。爆発的な歩幅。

 腕が。しなる。

 150キロの剛腕と。全く同じスピードで。右腕が振り下ろされる。

 打者の脳が。異常を感知する。

 来る。150キロの超速球だ。

 打者は。バントの構えを。瞬時にヒッティングへと切り替えた。

 身体が。勝手に反応する。

 指先から。ボールが離れた。

 ここから。わずか1秒足らずの。静寂の時間が始まる。

 スローモーション。

 白球が。マウンドとホームベースの中間点を通過する。

 打者のスイングが。始動する。

 しかし。

 ボールが。来ない。

 150キロの腕の振りから。放たれたのは。

 121キロの。直球。

 あまりのギャップに。打者の視覚が。バグを起こす。

 脳の命令と。実際の打撃タイミングが。致命的に噛み合わない。

 打者は。強引にスイングの軌道を。修正しようとした。

 その刹那。

 ボールが。手元で不自然に跳ね上がった。

 強烈なバックスピン。2400回転のホップ成分。

 重力を拒絶する「炎」が。打者のバットの上を。すり抜けていく。

 打者が。虚空を切り裂く。

 その瞬間。

 それまでの静寂が。嘘のように吹き飛んだ。


 パァァァン!


 乾いた爆音が。球場に轟く。

 捕手。佐伯誠二のミットが。完璧にその球を捕らえていた。


「ストライク!」


 審判のコールが。響き渡る。

 打者は。呆然とした表情のまま。身動きが取れない。

 

 2球目。佐伯のサインが出る。

 湊は。息を呑んだ。

 ミットの真ん中を指す。そのサインが意味するもの。


「――あれを、やるのか」


 公式戦、未開帳の魔球。

 これまで湊が投じてきたサークルチェンジ。

 打者の手元でシンカーのように沈むだけの。どこにでもある変化球。

 だが。湊の狂気は。それでは満足しなかった。

 サークルチェンジの「抜く」感覚。

 それに。フォークボールの「落ちる」絶望を融合させた。

 中指と薬指。その2本だけで。白球の縫い目を引き裂くように挟み込む。

 変則のV字。

 指先が。悲鳴を上げる。

 前腕の割れた筋肉が。ミチミチと不穏な音を立てた。


 サークルチェンジから進化させた新球種『バルカンチェンジ』。


 湊の目が。怪しく光る。

 リンスカムの跳躍から。再び150キロの腕振りが。炸裂する。

 打者は。先ほどのホップする直球の残像に。怯えていた。

 上だ。球の軌道を。無意識に高く見積もる。


 放たれた。2球目。

 またしても。わずか1秒足らずの。スローモーション。

 打者は。直球と同じ軌道を見出し。バットを迷いなく振り抜いた。

 完璧なタイミング。

 捉えた。誰もが。そう思った。

 だが。ホームベースの手前。

 白球が。突如として「意思」を持ったように。軌道を歪める。

 球速は。わずか80キロ。

 直球との差。実に40キロ。

 ボールは。斜め下方へと。文字通り「消失」した。

 ただ落ちるのではない。

 打者の視界から。斜めに。揺れる。陽炎のように視界から消え去るのだ。


 スカッ。


 あまりにも無残な。空振り音。

 打者は。勢い余って。その場に膝を突いた。


 パシン!


 静寂を引き裂く。捕球音。

 佐伯のミットが。地面すれすれで。その魔球を不敵に受け止めていた。


「ストライク!」


 球場全体が。水を打ったように静まり返る。

 清稜の打者は。膝を突いたまま。マウンドの湊を見上げていた。

 その瞳に宿るのは。驚愕。そして。得体の知れないものへの恐怖。


 120キロの投手が投げる。80キロ台の球。

 文字にすれば。ただの緩い変化球だ。

 だが。その実態は。打者の脳の予測を。完膚なきまでに破壊する「毒」だった。


「な……んだ。今の球は……」


 3球目。完全に心を折られた打者に対し。

 湊は。手元で急激にブレーキの掛かる。パラシュートチェンジを投じた。

 打者のバットは。完全にタイミングを外され。哀れに空を斬った。


「三振!」


 清稜のベンチから。完全に余裕が消えた。

 次なる2番打者は。技巧派(青)。

 配球を読み。粘るタイプだ。

 だが。湊と佐伯のバッテリーは。清稜の「観察眼」を。さらにその上から踏み潰す。

 同じ球種を。絶対に続けない。


 インコースへのツーシーム。

 アウトローへの122キロ。

 そして。カウントを整えた後。

 再び。牙を剥く。

 必殺の――『バルカンチェンジ』。

 打者の手元で。白球が。あり得ない角度で揺れながら。沈む。

 バットは。球のはるか上を。空しく通過した。


「三振!」


「バカな……。球速は120キロそこそこだぞ!?」


 清稜の次打者が。声を荒らげる。

 理屈では。打てるはずの球。

 なのに。彼らが誇る精密なデータが。一切の役に立たない。


 3番打者。

 完全に迷いの中にある。神経質型(緑)。

 佐伯のリードは。どこまでも冷徹だった。

 ストライクゾーンでの勝負を。徹底的に避ける。

 見せ球のボール球を。多く使い。打者の思考を。じらす。

 追い込まれた打者は。もう手が出ない。

 カウントツーストライク。

 湊は。深く。深く。プレートを蹴った。

 前腕の痛みが。心地いい。


「進歩するしかねえだろうが……!」


 心の中で。咆哮する。

 父が言った「センス」という言葉の檻。

 伝統という名の。冷たい壁。

 そのすべてを。この1球で。引き千切る。

 放たれた白球は。

 打者の手元で。再び。爆発するように伸びた。


 カキッ。

 かすっただけの打球が。佐伯のミットに。吸い込まれる。


「ストライク! バッターアウト!」


 3者連続三振。

 その瞬間。保土ヶ谷球場が。割れんばかりの爆音のような歓声に包まれた。

 湊は。マウンドの上で。獣のように吠えた。

 その声は。聖隷高校の。古い秩序を。

 完全に破壊する。引き金の音だった。

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