第51話:秩序の崩壊
第51話:秩序の崩壊
空の青が、じっとりと網膜を焼きにくる。
雲一つない。残酷なほどに均一な、夏の青だ。
その直下に広がる、球場の内野の土。陽根に炙られた茶色は、選手たちの流す汗を吸って、ところどころ黒く変色している。
熱気。景色が陽炎のように歪む。
スコアボードに刻まれた「0-1」の数字が、聖隷高校のベンチに重くのしかかっていた。
ジャッ、ジャッ、ジャッ。
また、あの音がする。
横浜清稜高校の走者たちが、リードを取るためにスパイクで土を噛む音だ。
それは不気味な規則性を持って、ベンチの端に座る一条湊の耳奥へと届く。
自身の心臓の鼓動と、完全に同期していく。
耳障りな足音だった。
「……4回表、清稜の攻撃。ワンアウト、ランナー一塁」
マネージャーの結城陽葵が、震える声で呟いた。
数式と、過去のデータが、細い文字でびっしりと書き込まれている。
陽葵の指先が、白い紙の端を強く巻き込んでいた。
「清稜の一塁ランナー、五島くん。50メートル5秒9。……でも、それだけじゃない。彼の本当の恐怖は、スタートの『位置』にある。こちらの呼吸を完全に測っている」
マウンドの上。エースの豊田零司が、乱暴にロージンバッグを拾い上げた。
白い粉が、熱い空気の中に霧のように霧散する。
豊田の顔には、隠しきれない苛立ちが刻まれていた。
三回戦までの、あの絶対的な「武」の佇まいはそこにはない。
150キロの剛速球を、横浜清稜は決して強振しようとはしなかった。
ただ、見送る。
ただ、ファウルで粘る。
そして、豊田の投球モーションが僅かに長くなった瞬間を、鋭く盗み取る。
ギチ、ギチ、ギチ。
不気味な音が、聖隷ベンチの最暗部から響いていた。
湊だった。
彼はグラウンドから一切の視線を外さないまま、自身の右手を酷使していた。
佐伯が部室から持ってきた、硬質ゴムの四角いブロック。
それを、右手の親指、人差し指、中指の三本だけで、引きちぎらんばかりの力で締め上げている。
指先の毛細血管が圧迫され、爪の隙間から血の気が失せていく。
皮膚が白く硬化し、やがてドクドクと、狂ったような拍動を始める。
痛覚。それはとっくに麻痺していた。
150キロの腕の振り。そこから、脳のブレーキによって122キロの「バグ」を生み出す。
そのための、指先のクラッチ。
この地獄のような熱気の中で、感覚をミリ単位で固定しなければ、あの球はただの棒球になる。
狂気的な特訓は、絶えず湊の身体を蝕み続けていた。
「……湊」
一年マネージャーの浅倉仁衣菜が、その様子を横目で睨みつけていた。
ショートカットの髪が、首筋の汗に張り付いている。
彼女の吊り上がった目が、微かに潤んでいた。
手にした氷嚢を、湊の首筋に乱暴に押し当てる。
「何よ、その無駄な抵抗。出番なんてないかもしれないのに。指、壊す気? ……あんたが壊れたら、誰が手当てすると思ってんのよ。バカ」
ツンとした言葉。だが、その声は微かに震えていた。
湊は答えない。ただ、首筋に伝わる氷の冷たさを無視して、グラウンドを見つめ続けた。
美術部で培った、湊の「視覚」が動く。
マウンド上の豊田。その右肩のユニフォームの、白い布地の皺。
一塁ランナーの、右足の親指へと傾く重心のドット。
それらを、脳内のキャンバスに「デッサン」するように描き出す。
(──来る)
湊の脳が、直感を弾き出した。
豊田の指先から、ボールが離れる。
150キロのストレートが、内角高めへと突き刺さる。
その瞬間だった。
世界が、引き延ばされたように速度を失う。
わずか1秒に満たない、静寂の深淵。
清稜の一塁ランナーは、豊田が始動した瞬間には、動かなかった。
豊田の手から白球が放たれ、その軌道が確定した瞬間。
捕手である黒田一が、ミットを内角高めへと構え直した、まさにその刹那。
ランナーの重心が、爆発的に二塁へと崩れた。
ディレードスチール。
投球と同時ではない。捕手の動きの隙を突く、時間差の略奪。
ドシュッ!
黒田のミットにボールが収まる。
その爆音と同時に、世界の時間が一気に現実へと引き戻された。
「しまっ──!」
黒田の顔が驚愕に染まる。
すでにランナーは、中間地点を過ぎている。
焦りが、黒田の全身の筋肉を硬直させた。
無理な体勢からの送球。
指先から離れた白球は、正しい回転を失っていた。
シュート回転しながら、二塁ベースの大きく右側へと逸れていく。
「山倉! カバー!」
黒田の悲鳴のような怒声。
遊撃手の山倉大智が、必死にベースへと滑り込む。
だが、遅かった。
豊田のワンマン体制。
「俺が抑えれば勝てる」という絶対エースの影で、聖隷の野手陣は、自ら「考えること」を放棄していた。
想定外のディレードスチール。
誰がベースに入り、誰がカットするのか。
その一瞬の「迷い」が、致命的な連鎖を生む。
ザザーッ!
激しい砂煙が舞う。
山倉のミットが空を切り、ボールがセンターへと転がっていく。
その間に、清稜のランナーは三塁へと到達した。
ノーヒット。またしても、一本の安打も許していない。
それなのに、聖隷の守備陣は、自分たちのミスによって自滅しかけていた。
「何やってんだ、山倉!」
黒田がマスクを脱ぎ捨て、グラウンドに叩きつけんばかりの勢いで怒鳴る。
「今のは黒田の送球が悪いだろ!」
二塁手の清田が、すかさず噛み付いた。
3年生たちの間に、露骨な、そして醜い擦り合いが始まる。
伝統という名の秩序。
それは、完璧に機能している時は美しい。
だが、一度綻びが生じれば、互いを縛り付ける冷たい檻へと変貌する。
マウンド上の豊田は、動かなかった。
ただ、自らの足元の土を、スパイクの刃で激しく削り続けている。
「マウンドを汚すな」
彼がずっと下級生に言い続けてきた、孤高の矜持。
それが、清稜の泥臭い、しかし極めて計算された走塁によって、容赦なく踏みにじられていく。
豊田の背中から、どす黒い「怒り」が立ち上っていた。
その後、次打者の放った頼りない内野ゴロの間に、三塁ランナーが生還した。
パシッ、という乾いた音が、聖隷の息の根を止めるように響く。
5回終了。
0-2。
「……最悪の流れね」
陽葵がノートを閉じた。
グラウンドには、整備のためのトンボを持った整備員たちが立ち入る。
スタジアムには、清稜のブラスバンドが、勝利を確信したかのような軽快なファンファーレを鳴り響かせていた。
聖隷高校のベンチ。
うだるような夏の暑さ。それなのに、ここには不気味な氷点下の空気が満ちていた。
3年生たちは誰も口を利かない。
豊田はベンチの奥で、ユニフォームの膝を泥で汚したまま、荒い息を吐いている。
黒田は遠くを見つめ、清田はチッと舌打ちを繰り返す。
ミスへの怒りではない。
「どうして自分たちの正しさが通用しないのか」という、システムへの混乱。
その呪縛が、チームの身体を完全に硬直させていた。
誰も、動けない。
誰も、声を上げられない。
その重苦しい沈黙の深淵。
ベンチの最も陽の当たらない場所から、一人の男が、ゆっくりと腰を上げた。
背番号「13」。
椛島隆士。
かつては豊田と並び称された「武」の象徴。
しかし、怪我によってその地位を追われ、今は代打枠という名の「窓際」に佇む男。
彼の大きく、しかしどこか寂しげな背中が、冷え切ったベンチの中で異様な存在感を放ち始める。
椛島は、壁に向かって指先を血に染めようとしている湊の姿を一瞥した。
そして、歪んだ笑みを浮かべる。
「──おい。いつまでそんな死人みたいな顔をしてるんだ、お前ら」
その声は、地を這うように低く、そして、驚くほど熱かった。




