第45話:虹色のカーブ
第45話:虹色のカーブ
八回表。
マウンドに立った筧翼の視界は、湿った熱気で歪んでいた。
三対三の同点。ノーアウト、ランナーなし。
相模原重工附属の打順は、不動の一番・坂本から始まる。
「……ふぅ」
筧は大きく息を吐き、左腕を回した。
工藤公康に憧れ、磨き抜いた「七色のカーブ」。
緩急、角度、回転軸の微差で打者を翻弄する芸術的な投球が、今の聖隷には必要だった。
だが、キャッチャーの黒田が構えたミットから、かつてないほどの威圧感を感じる。
(……黒田、お前も相模原の『知』に怯えてるのか?)
黒田のサインはインコースの真っ直ぐ。
相手が「待ち」に徹しているなら、力で押し込めという伝統の思想だ。
ドシュッ。
135キロ。筧としては上出来の球が、坂本の懐を抉る。
しかし、坂本は微塵も動じない。
最短距離でバットを出し、ファウルにする。
カッ。
二球目、外へのスライダー。ファウル。
三球目、チェンジアップ。ファウル。
坂本の表情には余裕があった。
それはまるで、筧の持つパレットの色を一つずつ確認し、リストから消去していく作業のようだった。
(ダメだ。……全部、読まれてる。僕が一番自信のある球を投げる瞬間に、あいつらは僅かに重心を沈めるんだ)
背筋を冷たい汗が伝う。
四球目、カーブを引っかけられ、三遊間を抜けるヒット。
続く二番・高橋には、初球を完璧なセーフティバントで決められた。
無死一二塁。
絶体絶命。
アルゴリズムという名の絞首刑が、筧の喉元を締め上げる。
タイムを取った黒田がマウンドへ駆け寄るが、その言葉には焦りがあった。
「筧! もっと腕を振れ! 逃げるから当てられるんだ!」
「……わかってる」
筧は力なく答えた。
精神論では解決できない「詰み」の盤面。
黒田が守備位置へ戻り、再び静寂が球場を支配する。
ふと、筧はベンチを、いや、ベンチの隅に立つ湊を見た。
湊の瞳に「炎」を感じた瞬間、筧の脳裏に、数日前の放課後の光景がフラッシュバックした。
『筧さんのカーブは、正確すぎますよ』
練習後の水飲み場で、湊はロージンの粉で白くなった指を眺めながらそう言った。
『正確? 褒め言葉かよ』
『いえ。絵で言うなら、定規で引いた線です。それは理解されやすいです。……筧さん。本当に打者を狂わせるのは、パレットにない色ですよ』
『パレットにない色……?』
『「怒り」の混ざった青とか……指先を、あと一ミリだけ。ボールの縫い目から外す勇気を持つこと…。それができたら、みんなが知っている七色じゃなく虹色になります』
マウンド上の筧が、左手のグラブの中でボールを握り直した。
バッターは三番・佐藤。
黒田のサインは外角低めのカーブ。
(一条、あのときは1年のくせにとか思ったけど、お前の言う通りにしてみるよ。……僕の知らない僕を、こいつらに見せてやる)
筧は、あえてボールの縫い目から人差し指をミリ単位で外した。
理論上、それは制御不能の「バグ」を生む。
しなやかな左腕が弧を描き、ボールが指先を離れる。
投じた瞬間、筧は指先に「灼熱」を感じた。
ヒュンッ!
通常のカーブより、一瞬早く、そして不規則に横へと膨らむ軌道。
「……なっ!?」
相模原ベンチの監督が、思わず身を乗り出した。
佐藤の予測していた「カーブの頂点」が、そこにはなかった。
バットは空を切る。
ドシュッ。
ミットの芯を外れたボールが、黒田の親指を突くような鈍い音を立てた。
「おい、筧! 今のはなんだ!」
驚愕する黒田に対し、筧は不敵に笑った。
震えていた指先が、今は熱を帯びて心地よい。
(これだ……。計算式にない、不純物。虹は七色じゃない、無限なんだよ!)
続く二球目。同じ「崩し」を加えたスライダー。
三球目。抜くのではなく、叩きつけるようにして回転を殺したチェンジアップ。
相模原の打者たちが、戸惑いを見せる。
彼らの持つ「聖隷・筧翼」のデータが、目の前の投球によって次々と上書きされ、崩壊していく。
ピッチャーゴロ。
最後は、四番・伊藤を渾身の「汚れた」真っ直ぐで詰まらせ、ショートフライ。
無死一二塁という地獄を、筧は一人で、無失点で切り抜けた。
「……ナイスピッチ、筧」
ベンチへ戻る筧の肩を、鬼塚監督がポンと叩いた。
その横で、湊が静かに頷く。
「……いい色でした、筧さん」
「……お前のおかげだよ。ムカつく一年坊主だ」
筧はタオルで顔を拭い、荒い息を整えた。
八回裏。
保土ヶ谷球場の上空で、一筋の雷鳴が轟いた。
雨が、静かに降り始める。
聖隷高校の意地が、相模原の精密な侵食を押し返し始めた。




