第37話:和を乱す異能
第37話:和を乱す異能
横浜スタジアムの喧騒が、遠い鳴動のように響いている。
サヨナラ勝ち。1回戦突破。
本来なら歓喜に沸くはずのベンチ裏、コンクリートの通路には、勝利の熱を冷やすような静寂が横たわっていた。
湊は、ベンチの隅で一人、仁衣菜に巻かれたアイシングの冷たさに耐えていた。
視線の先には、荷物をまとめる3年生たちの背中がある。
「……奇術、か」
豊田が残した言葉が、耳の奥でリフレインする。
157キロをバックスクリーンへ叩き込んだ圧倒的な「力」。
10年間、壁に向かってボールを投げ続けてきた自分の「狂気」を、あの一振りが無価値なものとして切り捨てた気がした。
「一条、どけ。邪魔だ」
冷徹な声が降ってくる。
正捕手、黒田一だった。
「要塞」と称されるその巨躯が、湊の視界を遮る。黒田は、湊の横に置いてあったキャッチャーミットを無造作に掴み取った。
「黒田さん……」
「勘違いするなよ、一条。今日の勝ちを、自分の手柄だと思うな」
黒田の瞳には、昏い色が宿っていた。
それは、湊の「2400rpm」の威力を改めて目撃し、骨身に沁みて理解してしまったがゆえの、拒絶。
豊田と共に「武」の聖隷を築き上げてきた自負が、下級生の持ち込んだ「異能」を、毒素のように排除しようとしている。
「お前の球は、野球の和を乱す。122キロなんて『バグ』に頼った勝利は、聖隷の伝統に対する冒涜だ。豊田が言った通り、それはマウンドの覚悟を問わない『奇術』に過ぎない。俺は……認めない」
黒田の手が、わずかに震えている。
認めているのだ。湊が三振を奪った瞬間の、あの脳が痺れるような感覚。豊田の150キロとは違う、異次元の恐怖。
だからこそ、認められない。認めれば、自分たちが積み上げてきた「正しさ」が崩壊してしまうから。
「おい、そこまでにしておけ、黒田」
低い、落ち着いた声が割って入った。
椛島隆士だ。怪我で代打に甘んじているはずのその男の眼光に、黒田が言葉を飲み込む。
椛島は湊の隣に腰を下ろすと、湊の肩を、節くれ立った大きな手で力強く叩いた。
「気にするな、一条。あいつらは、お前の球が『本物』だからこそ怯えてるんだ」
「……怯えてる?」
「ああ。自分たちが届かなかった境地に、お前が122キロという、自分たちが一番馬鹿にしていた数字で到達してしまったからな。黒田の言葉は、豊田への忠誠心という名の、ただの八つ当たりだ」
椛島は、スタジアムの隙間から差し込む夕日を見つめた。
かつて豊田と並び称された「武」の象徴だった男の横顔は、深く、哀しい。
「豊田は『天才』だ。努力なんて言葉が霞むほどの輝きを持っている。でもな、一条。お前の『努力』は、その天才の光さえも飲み込む影を作れるはずだ。……俺は、その影が見てみたい」
椛島の言葉が、凍りついた湊の心に、わずかな熱を灯す。
その時。
「湊!」
通路の入り口から、明るい声が響いた。
他校の制服を乱暴に着こなした少女――織部翠が、大会関係者の制止を振り切るようにして駆け寄ってきた。
「翠……何しにきたんだよ、ここ入っちゃダメだろ」
「何って、感想言いに来たに決まってんじゃん! 湊、最高にイカれてたよ!」
翠は湊の目の前に立つと、湊のアイシングされた右腕を指差した。
その瞳には、かつて同じ「投手」として悩んでいた頃の暗さは微塵もない。
「あの122キロ、痺れた。見てるこっちの脳のリミッターまで外れそうだったよ。あんなの、理屈じゃない。きみの執念が、物理法則を殴り飛ばしたんだ。最高に『綺麗』だった」
「綺麗、か……」
美術部での「観察」と、マウンドでの「狂気」。
翠の言葉は、豊田や黒田が否定した「湊の野球」を、一つの表現として肯定していた。
「あーあ、ますます惚れ直したかも。ねえ、今度あたしの練習相手になってよ。湊の『2400rpm』、間近でじっくり観察したいから」
翠は不敵に笑い、湊に背を向けた。
翠が去った後、再び戻ってきた静寂。
湊は、自分の指先をじっと見つめる。
アイシングの奥で、脈打つ確かな痛み。
(天才の光。伝統の要塞。……それを壊さなきゃ、僕は僕を認められない)
昨夜、自室で鉛玉を指先で弾き続けた感覚を思い出す。
1キロの重みが、指先の神経を焼き切るようなあの狂気の時間。
エース・豊田が放ったサヨナラ・ホームランの弾道は、湊にとって「祝砲」ではなく、倒すべき「魔王」の咆哮として胸に刻まれた。




