第107話:思考の麻痺
第107話:思考の麻痺
選択肢が多すぎる空間で、脳はどのように死滅するか。
8回裏。
スコアボードには、122キロの遅球が刻み続けた「0」の羅列。
相手チームのベンチは、焦燥と混乱で完全に統制を失っていた。
監督が血走った目でスコアラーを睨みつけるが、彼らの手元にあるタブレット端末は、湊の投球フォームにいかなる物理的エラー(癖)も提示できていない。
「……代打、俺がいきます」
ベンチの奥から、一人のベテラン選手がバットを手に立ち上がった。
他球団から移籍してきた、データ重視の神経質型(緑)の強打者。
彼は、自らの脳内に膨大なデータベースを構築し、消去法で球種を絞り込むプレースタイルで、数々の修羅場をくぐり抜けてきた。
ドームに代打のコールが響く。
バッターボックスに入ったベテランは、鋭い視線でマウンド上の湊を睨みつけた。
(……122キロの直球。120キロのツーシーム。110キロのフォーク。90キロのパワーカーブ。80キロのバルカンチェンジ。60キロの超スローカーブ。……球種は6つ。だが、必ずどこかに確率的な偏りがあるはずだ)
彼の脳髄が、過去の配球データと現在のカウントから、最も確率の高い球種を算出しようとフル回転を始める。
マウンド上の湊は、そのベテランの硬直した筋肉を、冷徹な青い眼でデッサンした。
(……大脳皮質の過活動。筋肉への信号伝達の遅延。スイングの始動よりも、思考の完了を優先している)
ベンチ裏。
結城陽葵が、排熱ファンをジリジリと唸らせるノートPCのキーボードを軽く叩く。
『対象の思考プロセス、ループ状態に突入。……第7の変数の入力を推奨』
そのメッセージを見た陽葵は、眼鏡の奥で冷たく目を細めた。
湊は、セットポジションに入った。
大腿四頭筋からエネルギーを吸い上げ、胸郭を捻転させる。
癒着した前腕の繊維がミシミシと軋み、手首が絶対的な座標でロックされる。
スローモーション。
アメリカで形成された指先のタコが、ボールの縫い目に触れる。
放たれたのは、これまでの6球種と完全に同じトンネル(軌道)を通過する白球。
初速から、打者の脳内コンピューターが強制的に再計算を強いられる。
(……この速度帯。直球か? いや、ツーシームか? フォークの可能性も……)
ベテラン打者の脳内で、6つの選択肢が激しく明滅し、処理能力の上限を突破しようとしていた。
そこへ。
ボールは、手元5メートルの空間で、予測したどの軌道とも違う動きを見せた。
直球のようにホップせず、ツーシームのようにスライドせず、バルカンチェンジのように不規則に揺れることもない。
ただ、重力のみに従って、真っ直ぐに、そして力なく落下した。
70キロの『パラシュートチェンジ』。
直球と同じ腕の振りから放たれた、完全に「死んだ球」。
(……!?)
打者の脳が、未知の第7の変数を入力されたことで、完全にフリーズした。
直球の残像と、曲がる恐怖、落ちる恐怖。
相反する複数の情報が脳内でショートを起こし、筋肉へ「振れ」という指令を出す回路が完全に焼き切れたのだ。
ベテラン打者は、バットを肩に担いだまま、ピクリとも動くことができなかった。
パンッ。
キャッチャーミットが、虚しい音を立てて白球を飲み込んだ。
球審の「ストライク!」のコール。
打者は、エラーを起こした瞳孔を見開いたまま、ストライクゾーンの空間を凝視して完全に硬直している。
2球目。同じトンネルから、80キロのバルカンチェンジ。
打者は、一度思考をリセットしようとしたが、不規則に揺れる軌道が再び脳を麻痺させ、見逃し。
3球目。122キロの青い炎(直球)。
遅球の残像によって体感180キロに錯覚させられたレーザービームに、打者の筋肉は完全に機能を停止し、またしても見逃し三振。
バットを一度も振ることなく、三球三振。
スタジアムが、圧倒的な絶望感に包まれる。
それは、剛速球に力負けした時の悔しさではない。
自らの立っている空間の物理法則そのものが狂い、脳を直接破壊されたという、根源的な恐怖。
マウンド上の湊は、バッターボックスで石像のように固まるベテラン打者を見下ろし、ロージンバッグを無造作に放り投げた。
プツン、と舞い散る白い粉。
「……思考回路、切断完了」
氷のように冷たい呟き。
選択肢を極限まで増やし、同一座標から出力し続けること。
それは、相手に考えさせる余地を与えるのではなく、考えさせることによって脳を物理的に殺す、残酷なハッキングだった。




