第106話:捕手のハッキング
第106話:捕手のハッキング
未知の規格に、旧式のOSは対応できるか。
東京ドーム、7回表。
スコアは依然として0対0。マウンド上の湊は、完全に機械としての稼働を続けている。
だが、その無機質な空間ハッキングの代償を、最も近くで浴び続けている人間がいた。
「……タイム」
球審に右手を上げ、湊の所属球団の正捕手であるベテラン・黒木がマウンドへ歩み寄ってきた。
彼はマスクをずり上げ、額の汗を拭う素振りをしながら、左手のキャッチャーミットを隠すように腰の後ろへ回した。
そのミットの中の左手は、2600rpmの激しいスピンの衝撃を100球近く受け続けた結果、鬱血して赤黒く腫れ上がっていた。
「おい、ルーキー」
黒木の声は、ドームの歓声にかき消されそうなほど低く、掠れていた。
「お前の球、ミットの中でまだ回転してやがる……。捕球した瞬間、手首ごと持っていかれそうになるんだ。それに、あのバルカンチェンジ。俺の長年の捕球感覚が、完全に狂っちまってる」
黒木は、プロで15年飯を食ってきた男だ。150キロ後半の剛速球も、鋭く落ちるフォークボールも、何万球と受けてきた。
どんな球種でも、投手のリリースポイントと初速から、コンマ数秒でミットの位置を微調整する『旧式の、しかし極めて優秀なOS』を脳内に構築している。
だが、湊のピッチトンネルから飛び出してくる球は、そのOSの処理能力を物理的に凌駕していた。
122キロなのに、ミットを上に弾き飛ばすほどの重力異常(ホップ成分)。
80キロなのに、空気抵抗で右へ左へと不気味に揺れながら向かってくる空間のバグ(バルカンチェンジ)。
湊の青く冷え切った眼が、黒木の腫れ上がった左手首をデッサンする。
(……尺側手根伸筋の炎症。微細な腱の断裂。コンタクト時の座標ズレによるダメージの蓄積)
湊にとって、黒木は味方でも先輩でもない。自らの金型から出力された球を物理的に受け止める『レシーバー』という部品に過ぎない。
その部品が、スペックの限界を迎えている。ただ、それだけの事実。
「……捕球位置の座標を、ボール半個分、下へ修正してください。直球のホップ成分に対して、ミットの出し方がコンマ02秒早すぎます」
湊の氷のように冷たく、平坦な声。
黒木は一瞬、ルーキーの無礼な物言いに怒りを覚えそうになったが、湊の一切の感情を含まない瞳を見て、背筋に冷たいものを感じた。
こいつは、人間と会話しているつもりはない。システムのエラー修正を行っているだけだ。
「……分かった。次、バルカンチェンジのサインを出す。絶対に後ろに逸らさねえ」
黒木はマスクを被り直し、ホームベースの裏の定位置に戻った。
打席には、5番打者。パワーと確実性を兼ね備えた、直感型(赤)の右打者。
湊はセットポジションに入り、意識を丹田に沈める。
極限の高重量ウエイトで鋳造された大腿四頭筋がエネルギーを吸い上げ、癒着した前腕の繊維が悲鳴を上げながら手首をロックする。
スローモーション。
変形した指先が、ボールの縫い目に『摩擦係数0.1』という特殊な接触を与える。
シュッ!
放たれた80キロのバルカンチェンジ。
打者は、ストレートと全く同じ腕の振りから飛び出した遅球に対し、本能的にバットを止めた。
ボールは、ホームベースの遥か手前でマグヌス力を失い、空気の層に弾かれるように不気味に揺れながら迫ってくる。
黒木は、湊の指示通りにミットの座標を修正し、ボールの落下地点を待った。
だが。
ボールは黒木の予測した落下軌道から、ドームの空調の微かな気流すらも巻き込んで、さらに外側へと急激にスライドした。
(なっ……!?)
黒木の旧式OSが完全にフリーズする。
脳がミットを動かす指令を出すより早く、ボールは黒木のミットの端を掠め、右肩のプロテクターに重く衝突した。
ゴッ!
鈍い音とともに、ボールがバックネット方向へと転がっていく。
パスボール。
スタジアムがどよめきに包まれる中、黒木は這いつくばってボールを追いかけた。
彼の長年の経験と感覚が、18歳のルーキーが投じた異常な物理現象の前に、完全に敗北した瞬間だった。
ベンチ裏。
陽葵のPCの液晶画面が、新たな数値を弾き出す。
『捕手の処理能力上限を突破。エラー発生。……球質のダウングレードを推奨しますか?』
マウンド上の湊は、ボールを拾い上げて戻ってきた黒木を見下ろすこともなく、自らの指先のタコを静かに擦り合わせた。
ザリッ。
「……ダウングレードは、不要。座標のアップデートを急いでください」
無機質な声が、黒木の頭上から降り注ぐ。
プロの技術すら無効化する、暴力的なまでの空間支配。
122キロの異端のプログラムは、敵はおろか味方のシステムすらも物理的に破壊しながら、ノーヒットノーランのカンバスを塗りつぶし続けていた。




