第34話:水の使徒リュミエール
林を抜けた頃には、焦げついた匂いもすっかり消え、湿った霧の名残だけが夜気に漂っていた。静馬は足を止め、背後を一度だけ振り返る。
暗闇の奥に、もはや敵の影はない。
「……今日は疲れたな。家に帰って寝るとしよう」
低く呟き、肩から重みを下ろすように息を吐く。
石畳を踏む音が、静まり返った路地に溶けていく。
人影のない裏通りを抜け、灯りの漏れる我が家の玄関に辿り着いたとき、鍵を回す小さな音が妙に心を安らげた。
靴を脱ぎ、上着を椅子の背に掛ける。
台所で冷たい水を一口。喉を通るその涼やかさが、戦場で張り詰めた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
「やっと帰ってきたね」
頭の奥に響くラウラの声は、どこか安心した色を帯びていた。
「そうだな。ラウラの忠告通り今は無理して動く時じゃない。ゆっくり体を休めるとしよう」
「ふーん、珍しく素直じゃん」
軽口を受け流し、ベッドに腰を下ろす。
深く息を吐き、机の上に仮面を置く。
(……明日はまた動く。今だけは、静かにしていよう)
背を壁に預け、瞼を閉じる。
家の中は静まり返り、外からは風に揺れる木々のざわめきだけが届く。
やがて思考は緩やかに途切れ、静馬は深い眠りへと沈んでいった。
翌朝――
窓から射し込む淡い陽光に瞼を押し上げられ、静馬はゆっくりと目を開けた。
夢も見ずに眠ったのは、久しぶりだ。
体を起こすと、全身を覆っていた鈍い疲労もかなり引いている。
伸びを一つし、冷えた朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「おはよー、よく寝てたじゃない」
やけに軽やかなラウラの声が響く。
「おはよう……こういう朝も悪くないな」
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめる。
目の下の影が、ほんのわずか薄くなったように見えた。
朝食は焼いたパンと卵、それに温かいスープという簡素なもの。
特別な献立ではないが、食卓に漂う静けさは心地よかった。
「で、今日はどうするの? もう一日休む?」
「いや……もう体は大丈夫だ。すぐに動くよ」
「やっぱりね」
食器を片付け、上着を手に取る。
机から仮面を拾い上げ、しばらく手の中で見つめてから懐へしまい込む。
(……さっさと機構に恩を売って自由な学園生活に戻らないとな)
玄関を開ければ、朝の街はすでに活気づいていた。
行商人の呼び声、通学路を駆ける子どもたち、遠くで鳴る鐘の音――
その全てが、これから訪れるかもしれない闇を知らぬままに穏やかさを保っていた。
足は自然と、街の東側へ向かっていた。
中心部から離れるにつれ人通りは減り、石畳もやがて土の道に変わる。
朝の陽射しはまだ柔らかいが、静馬の中には確かな緊張が芽生えていた。
「ねぇ静馬、さっきから顔が怖い。せっかくの朝なんだからもう少し肩の力抜きなよ」
「……肩を抜いたままじゃ、何かあったとき反応できない」
「まぁね。でもアンタのそういうとこ、疲れるでしょ?」
「慣れてる」
そう短く返しながらも、視線は周囲から逸らさない。
木立の隙間に見える畑、その脇を通る水路、遠くで遊ぶ子どもたち。
どれも平和そのものだが、静馬の耳は風に混じる異音を探っていた。
(……気のせいか?)
視線の先、路地奥にある噴水の水面が不自然に揺れた。
陽光を反射してきらめく波紋が、音もなく円を描きながら広がっていく。
そこから、透き通るような冷たい視線が静馬をなぞっていた。
水の使徒。
青白い霊光を帯びた瞳が、静馬を見据える。
(……間違いない。炎のヴァルスを討ったのは、この男だ)
人混みをすり抜けるその歩みには無駄がなく、氣の流れも隠し切れない。
冷ややかな水面のような眼差しで、彼女は獲物を値踏みするかのように観察を続けた。
静馬はまだ、こちらの視線に気づいていない。
リュミエールは淡い笑みを浮かべ、まるで水に溶けるように消えた。
気配は完全に消え、ただ涼やかな風だけが静馬の背を撫でる。
(焦る必要はない……この街にいる限り、逃げ場はない)
彼女は静かに思考を巡らせる。
ヴァルスを倒した力。それが偶然か、実力か、見極めねばならない。
そしてもし実力ならば、その力を主のために奪う価値がある。
遠く、鐘楼の鐘が時刻を告げる音が響く。
静馬が人混みの向こうへ姿を消すのを見届け、リュミエールはゆっくりと歩き出した。その足取りは水流のように静かで、だが確実に獲物へと近づいていく。
――水面下で、二人の運命の流れはすでに交わり始めていた。




