鬼ごっこ
湖面に樹影と花筏が浮かんでいる。
鏡なる湖の当代はこれを愛でるだろうか。時音は指先を湖に浸して、桜のひとひらを掬い上げた。戯れに唇のあわいにそれを入れると、桜の芳香が口中に広がる。時音は当代に仕える文官だ。女だてらにその才覚が当代の目に留まり、抜擢された。湖底に沈む玉の精である時音は、姿もまた秀でていた。抜擢には嫉妬ややっかみの声も上がったが、時音はそれら全てをそよと流した。
「お前は花を喰うのか」
「咲早」
水草の精で文官の同僚でもある咲早が、呆れ顔をしている。
咲早は文官ではあるが、武芸にも秀で、帯刀していた。その刀を腰から外し、時音の隣に座った。空は紫を薄めたような青である。
「花は良いな。咲早」
「何がだ? ただ咲いて散るだけのことではないか」
「名前の割に、咲早は情緒がない」
「俺の興味はもっと別にある」
咲早がポン、と脇に置いた刀を叩く。
咲早が文官としても剣客としても上を目指していることは、時音も知っていた。向上心の高さに好感も抱いている。
「灯の方様、ご懐妊と」
「何、真かそれは」
うん、と時音は頷く。
「そうか。朗報だな。当代様もさぞお喜びだろう」
「乳母を探さず灯の方様、御自らお育てになるお積りらしい」
「灯の方様らしいな」
元は舞い手の金魚の精であった灯が、当代に見出され側室に収まり、しばしの時が流れた。灯への当代の寵愛は深く、周囲は灯の懐妊を待ち望んでいた。そこへこの知らせである。咲早や時音たち当代に仕える文官にも祝福の念が湧く。
時音は再び湖面を掻き混ぜ、花筏を散らした。
「子供のようなことをする」
「ふふ。楽しいのだ、これが」
時音は文官の装束を身に着けている為、一見して線の細い男性に見られがちだが、れっきとした女性である。そよ吹く黒髪にはしっとりとした艶があり、顔は小さく色が白い。実は同僚の文官たちから言い寄られることも珍しくはなかった。咲早はそれを憂い、時音に気がある男が現れたと見るや追い払っている。しかし、そんな咲早も実は時音に惹かれている。態度にそこはかとなく表れているが、時音は知らぬ振りを通している為、咲早も露見を知ることはない。
今の関係が心地好いのだと思いながら、時音はまたひとひらを食む。
咲早の手が伸びて、時音の細い手首を掴んだ。
「いい加減にしろ。湖面に浮かぶとは言え、当代様のものであるぞ」
「咲早、解ったから放して、痛い」
「あ、すまん」
咲早の頬が僅かに紅潮している。時音はそれを内心、複雑な思いで眺める。
「当代様にお披露目する武芸大会に出るんだって?」
「ああ。文官から出る人間は少ないだろうが、俺は腕に覚えがあるからな」
「そうだな。頑張って」
時音が緩い笑みを浮かべると、咲早が真剣な顔になった。
「もし、大会で勝ち進むことが出来たら」
「気が早いな。優勝者には当代様が願いを叶えてくれるんだろう?」
「ああ。お前を貰いたいと、言って良いか?」
「…………」
ゆるりとした風が吹き、湖面と時音たちの髪を揺らした。
言われてしまった、と時音は思う。鬼ごっこの鬼に捕まった気分だ。けれどそれは甘美な敗北感だった。
「良いよ」
時音は微笑を浮かべた。咲早が、時音を抱きすくめた。慎重に、傷つけないような柔らかな抱擁だった。時音は目を閉じた。関係の変化は、存外悪いものではないと、そう感じた。




