桐原綾音の慣れない距離感
人生には分岐点だとか選択肢だとか、そういった瞬間が必ずある。
「道隆、今日は泊めてくれ」
延々と降り続ける雨。体を濡らす温い水滴。杉村道隆の部屋の前で私、桐原綾音は発言する。
目の前の部屋の主人は、困ったような顔で玄関から出て、傘を私の上にかざした。
「いやな、おまえは分かってるのか? そりゃ友達だって言っても、僕は男だぞ? もし万が一間違いがあったらだな……」
「ん? 杉村道隆は間違うのか?」
我ながら卑怯な問いだと思う。
案の定、道隆は言葉に詰まった。そこで私は畳み掛ける。
「間違わないなら問題は無い。それにほら、つい最近まで一緒に住んでたんだ。一日くらい良いだろ?」
少し悩んだ道隆は、私の濡れた髪を見てため息をついた。
「とりあえず上がれよ。夏だって言っても、濡れっぱなしじゃ風邪をひく」
「ありがとう。ついでに着替えも貸してくれ。何も持ってきてないんだ」
しょうがないな、言って私に傘を渡して戻る道隆。夜に差しかかろうという時間帯だ。傘も差さずに訪ねた私に、道隆は気を使ってくれたのかもしれない。
遅れて玄関へと入り、傘を置いて待つ。道隆はすぐに着替えを持ってきてくれた。
「ほら。サイズは分からないけど、入らないって事は無いだろ」
私が礼を言うと、道隆は居間に戻っていった。廊下を出来るだけ濡らさないように洗面所まで移動し、鏡を見る。長い髪が水を含んで首にへばりつき、如何にも『何かありました』的な雰囲気が醸し出されている。こんな姿だからとりあえず部屋に上げて貰えたのだろう。
ま、部屋に上がればこちらの物だ。今日は泊まろう。
私は服を脱ぎ、風呂場へと入った。
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「で、何があったんだ?」
シャワーを浴びて居間に戻るなり、ちゃぶ台でテレビを見ている道隆はこちらを向かずに訊いてきた。
少し裾を折って着ているジャージは違和感がある。だけどその違和感は心地良いくすぐったさだ。
私は布団に寝転がり、くすぐったさを体に擦るように丸まる。
「ちょっとまた家出してきただけだ。明日には帰るよ」
なんて事は無い些細な姉妹喧嘩。妹の顔が見たくなくて、ついでに道隆の部屋が懐かしくて、衝動的に飛び出してきた。
道隆は何かを振り払うように首を振った後、絞り出すように言う。
「…………一日だけだからな」
ありがとう、と礼を言って私は毛布を手繰り寄せる。最近、良く嗅ぐようになった匂いは、落ち着くような、ざわめくような不思議な匂いだ。
猫で慣れたこの部屋も、人として来てみれば随分と狭い。布団は私一人でいっぱいだし、ちゃぶ台に並んで座るとぎゅうぎゅうだろう。
テレビを見る道隆の横顔を眺める。そして私はふと、お腹が減っている事に気付いた。
「道隆」
「ん?」
「ごはんくれ」
「パンで良いか?」
ああ、と私が言うと、道隆は台所へ移動した。文句も言わず食事を用意してくれるのは、前の生活の名残だろうか。
今ならパンを焼くくらい朝飯前、いや夕飯前だが、この場所から動くのも面倒だ。私は黙ってパンが焼けるのを待つ事を選択する。
そう、選択だ。
主人の目から離れた点きっぱなしのテレビは、ついこないだの祭りの事など無かったかのようにバラエティーを流す。
でも、確かにあの時、あの瞬間に私は選択したのだ。
「いや、その、大丈夫か?」
道隆の心配そうな顔。ああ、と私はどうにか返した。案内してくれた神社の古ぼけたベンチ。まだまだ壊れる気配は無い。
たこ焼きを買った直後、突然出て来た涙は楽しい時間を一変させた。
奢ってくれる、と道隆は言ってくれて、私は喜んだ。
猫の時はそれが当たり前で、でも隣に立って堂々と話せるのは新鮮で、私の心の針は早くから振り切れていたのだろう。
祭りは経験したことの無い華やかさに満ちていて、それを心から謳歌出来るようになった感謝。友達とふざけあって歩いた歩道橋。未知への僅かな恐怖と好奇心。そういうのがごちゃ混ぜになって、訳も分からず涙は溢れた。
そうして涙を流しながら私が感じた事。支えてくれた肩から伝わった優しさ。そこに何とも名前の付けがたい、しかし確かな感情を私は覚えたのだ。
「別に何かあったとか、そういう訳じゃないんだ」
でも、それを言葉にする事が私には出来ない。きっと話そうとしても、私が語ればそれは本質を変えてしまうだろう。変な話だが、自分自身で言い聞かせてしまう気がする。そこに私の色をつける事をしたくない。
古ぼけたベンチはそんなに広くない。手を伸ばせばすぐに届く距離。
もし私がどこかのラブコメよろしく、急に隣に寄り添ったらどうなるのだろう。頬でも紅く染めて、いじらしさを演出して。しかし、ああいう漫画は好きと言えばその全てが恋で、それ以外の心の成分はほとんど見えなかった。そこに私は前には感じなかった違和感を覚える。
私は間違い無く、この杉村道隆が好きなんだろう。だけどこのそこそこ自信のある胸の膨らみの中には、不確かな感情が多すぎる。『好きだ! 愛してるわ!』では片付けられない部分が多すぎるのだ。この不安に揺らぐ着物の紺と、今にもどこかに逃げ出しそうな指先と、共にくだらない事で笑いたいという欲求が一緒くたになったような感情には。
果たして、これはいわゆる恋、と言うものなのか。
少女漫画のように、いつも道隆が気になって仕方がない、きゃっ! なんて事は無い。多少は意識してしまう事はあるが、それが恋だと言われてもピンとこない。決定打が足りない。確信という名の道標が見えてこない。
要するに、私は迷っている。これからの身の振り方。桐原綾音は杉村道隆に対してどう接するべきなのか。
道隆は怪訝な表情で私を見た。
「じゃあ、どうして?」
どうして私が泣いたのか、私にだって分からない。誰か教えてくれ。
そうだ!
ここで、私は良い考えを思い付いた。
この感覚に名前を付けてくれたなら。この名前の無い感情を、もし道隆が言い当てられたなら。
私は自分の中の、最も縁遠かった選択肢を選ぼう。その選択肢は未知の世界だ。きっと全てが激変する。
私達の関係が、私の『好き』なんていうたったの二文字で。
ぐっ、と手を膝の上で握る。大丈夫。
私は道隆の答えに期待して、ニヤリと笑った。
「どうしてだと思う?」
道隆は一瞬呆れたような顔をして、顎に手を当てて真剣に考え始めた。
よくもまあこんな我が儘な女の話に付き合ってくれるなぁ、と思う。そこが良いところだけど、いつか変な女に引っかからないか心配だ。あ、私も十分変な女か。
これは賭けにならない賭け。一本道のあみだくじ。答えは簡単だ。何か推測を言うだけでいい。そうすればその推測を私は無理やり正解にする。
もしかしたら、いや、もしかしなくても私は望んでいるのだろう。だって、こちらの選択肢を選べば、更に楽しい世界が待っているはず。恐怖が無いわけではないが、立ち止まってはいられない。胸の中から『進め!』と声がするから。
道隆の答えに背中を押して貰って、私は先に進むのだ。最後のストッパーをここで外して。
口の中が乾いている。答えを、待つ。
少し考えた後、道隆は小さく首を横に振った。
「……分からない」
「それが答えか?」
それでも男か、道隆。
名前を付けるだけで良い。愛でも恋でも、何だっていい。その名前はきっとストンと私の中に綺麗に落ちて来るはず。
『失恋でもしたか?』でも『また家族と喧嘩したか?』でも良い。それはつまり、恋で愛だと受け取ろう。
道隆はもう一度首を横に振った。
「仕方ないだろ。生憎、僕は心が読める訳でもないし、特別頭が良い訳でもないんだ」
そうじゃないんだ。
私は形にならないもどかしさを隠し、もう一度だけ訊く。
「本当に、それでいいのか?」
「なんだよ。怒ってるのか?」
怒ってなんかいない。ただ、そうきたか、と思うだけ。ぷしゅー、と心の空気圧が音を立てて下がっていく。
結果は出てしまった。思わぬ変化球。握った手にかいていた汗をバレないように着物で拭う。
これも選択か、と思いながら私は道隆から視線を外し、張っていた気が弛むのを感じながら呟く。
「まあ、それならそれでいいさ」
風が微かに吹く。分かるか分からないかくらい、本当に微かに。
道隆は気付かない。
「なんだそれ」
「なんでもだ」
まったく、と思わず口に出て、その言葉に笑ってしまう。そう、まったくもって煮え切らない男だ。
私の密かな分岐点は、面白く無い方向に進んだ。面白い方向へは進めなかった。
だが、それもまた面白い。
道隆は頭の後ろで腕を組み、空を見上げている。
私は一つの悪戯を思い付いた。別に答えを言わなかった事とは全然さっぱり関係ないが、思い付いたものは仕方がない。
「道隆、今日は祭りだよな?」
「まあ、祭りだな」
「特別な日だよな?」
「そりゃ、特別と言えば特別だな」
そっか、と言って、私は空を眺める。
祭りは特別なんだから、特別に私の大事なものを一つ、くれてやろう。
恩もある。感謝もある。何より道隆の慌てふためく様がみたい。親愛の証でもあるし、大丈夫だろう。
鼓動が早くなるのが分かる。珍しく緊張なんてしているらしい。気にしちゃいけない。これは悪戯で、深い意味は無い。
ぎゅっ、と着物の裾を握る。
嫌われないかな?
あの日、婚約を決めた時より重苦しい喉を、精一杯いつも通りに揺らす。大丈夫だ。
「じゃあ特別に、一つだけ教えよう」
私は言い終わると同時に動く。動きだせば思ったより体は軽く、簡単に私の唇は道隆の頬と数センチの距離まで近寄っていた。
そこで、止まる。
予定ではもう数センチ動くはずだった。でも、未だ名前の無い感情が私の体を止めてしまった。
近くで見る道隆の顔。ああ、そういえばこの距離だ。自分を隠す物の存在しない距離。
猫だった時に一緒に行った散歩。何も言わずに眺めたテレビ。エアコンの風が冷たくて潜り込んだ布団。
名前の無い感情の名前。
「私はきっと、幸せだ」
幸せ。その言葉はストン、と私の胸に落ちてくる。この距離は真実しか伝えない。悪戯の代わりに、結果として納得のいく別の答えが出てしまった。自分で決めるつもりは毛頭無かったのに。
驚いたらしい道隆の目が泳ぐ。当然だろう。急にこんなに近寄ってきたんだ。
「あ、綾音。近い」
「ん?」
ああ、とわざとわからない振りをして私は離れた。
「悪い悪い。どうにも猫だった時の距離感覚が抜けないんだ。集中すれば大丈夫なんだが、気を抜くとすぐに転んだりしてしまう」
半分が本当で、半分が嘘。距離感覚がまだ変で、よく転ぶのは本当だ。
私は嘘つきな女。でも、面白ければ問題ない。
こうして、私の密かな、理不尽な選択は終わった。
とまあ、祭りの時はこんな水面下の駆け引きがあった。今、思えば悪戯しなくて良かった。変に意識されたら逆に泊まらせてくれなさそうだったし。
私は布団に寝転んだままテレビを見た。猫から戻って、怠惰な部分が強くなった気がする。それともここが落ち着くだけかもしれないが。
「出来たぞ、って、行儀悪すぎだろ」
毛布とぐるぐるに絡まるようにしてテレビを見ている私の姿は、台所から戻ってきた道隆からだらしなく見えるらしい。
私は頭を何とか道隆の方に向けた。
「な、なんか、セクシーに、見えないか?」
「良く言って前衛芸術だな。ってか首が折れるぞ」
あっさりと返してちゃぶ台にトーストの乗った皿を置く道隆を見て、私はぎりぎりまで曲げていた首を戻した。ムチウチになりそうだ。
毛布を簡単に畳み、ちゃぶ台に座る。
「お、さすが。バターたっぷりキツネ色」
「当たり前だ。さっさと食え」
道隆も私の斜め前に座る。
膝が触れる位の距離。少し遠い。
「ちょっと失礼」
「ん? …………近くないか?」
私は無理やり道隆の隣に座る。肩が触れる距離。テーブルに乗る訳にはいかないから、仕方がない。
「こっちの方が落ち着くんだ」
私がそう言うと、道隆は平静を装ってそうか、と返したが、悪いが心臓の音で焦っているのがバレバレだ。やはり猫の時とは勝手が違うらしい。
トーストを手に取る。熱く、香ばしい匂いがする。これも確かな幸せ。
私はこれから何を選択して、何と離れていくのだろう。きっと、人の力ではどうしようもない事だって起こる。選べない選択肢は、少し怖い。
でも、私はこの距離感が良い。いつか猫だった時の恩と、あの日々を忘れるまでは。
テレビはCMに変わった。道隆がチャンネルを変える。
あ、そういえば布団は一つしか無かったはず。これは悪戯するしかないな。
そんな事を思いながら、私はトーストにかぶりついた。
桐原綾音の慣れない距離感 了




