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昭和63年 昭和から消えた新人歌手(1〉

「こんな薄暗い道の向こうに本当にあのスタジオは存在するんだろうか…」


東京芸映テレビの楽屋からスタジオまでの入り組んだ廊下を歩きながら、新人歌手の坂口シンはまだまだ半信半疑だった。


毎週テレビで見る歌番組の華やかなスタジオと、今自分が歩く雑然とした廊下の間にはそれほどの大きなイメージの隔たりがあった。

いたるところにベニヤの建具が無造作に置かれたスタジオのバックヤードは、さながら陽のささない鬱蒼とした雑木林のようだった。


「これ、ドッキリ企画かなんかで、俺、騙されてるんじゃないのかな…」


白いマントに金のエンブレム…王子様風のステージ衣装に身を包んだ自分は、この後、番組出演は全部ウソでした…というドンデン返しを喰らうんじゃないか…。

全てが手の込んだ誰かの仕組んだイタズラなんじゃないか…。

シンはそんな疑いに支配されそうになった。


だが、目の前を足早に歩く案内の女性スタッフのジャンパーの背にはたしかに「原色★歌謡曲図鑑」のカラフル刺繍文字が鮮やかに施されている。

ロゴの中央に軽やかに踊る星のマークを見つめながら、シンは自分の胸の奥底で無数の音符が浮き立ち踊り始めるのをようやく感じていた。


「俺、本当に原色★歌謡曲図鑑にランクインしたんだ…な」


昭和63年…1988年、数年前から発売開始になったコンパクトディスク(CD)によって日本の音楽業界は大きな転換期を迎えていた。


戦後から長らく流行歌の中心にあった演歌・歌謡曲が徐々に下火になり、ヒットチャートはいち早くCDに馴染んだ10代のリスナーが支持するロックバンドや男女アイドル歌手が席巻するようになって久しかった。


そんな様々なジャンルのヒット曲が群雄割拠する日本のヒットチャートを可視化した音楽番組が原色★歌謡曲図鑑だった。


毎週木曜夜に放送中のこの番組は、レコード・CD売上、ラジオのリクエストチャート、番組に寄せられたはがきのリクエストを合わせたポイント制で、毎週独自のヒット曲のランキング上位10曲を決定。

カウントダウン形式でランキングされた曲を歌手が披露する生放送の音楽番組だ。


十年前に放送が始まったこの番組は音楽ファンから絶大な支持を得ており、番組は常時20%以上の視聴率を誇る。

出演することで楽曲も自分も知名度が爆発的に増大するため、この番組に出演することは歌手にとって大きな誉れとなっていた。


そんな原色★歌謡曲図鑑のスタッフからシンの元に、デビュー曲「ちょっと待ってください」のランクインの知らせが届いたのは先週のことだった。


ちょっと待ってください 早すぎる時間♪


新進の歌謡曲作曲家・筒井太平がシンに書き下ろしたこの曲は、日々の時間の流れの速さを憂うそんなフレーズで始まる明るく軽快な歌謡ポップスだった。


発売当初はあまり話題にならず、無名の新人のデビュー曲の一つとして不発に終わろうとしていたこの曲だったが、地道なレコード店キャンペーンを繰り返すうちに、冒頭のフレーズが日々を忙しく生きるサラリーマンOL層の心に刺さり、有線放送を中心にゆっくりと支持を広げて行った。


「シン、ちょっと待ってくださいの動きがかなりいいぞ」


所属事務所、筒井歌謡企画の社長でもある筒井太平は弾んだ声でそう喜んだが、シンにはどこかまだ他人事のようだった。

が、キャンペーンで行く先々のレコード店に訪れる聴衆の数が日増しに多くなる様を見るにつけ、自分の歌う歌がしっかりと聴く人に届いているのを実感せざるを得なかった。


「こちらでスタンバイください」

前を歩くスタッフが重い防音扉を開け、シンは明るいスタジオ内に導かれた。

「ミラーゲートだ…」

シンの眼前に背丈の倍ほどの高さの舞台装置である巨大な鏡の扉がそびえ立っていた。


原色★歌謡曲図鑑では、司会者がランクインした楽曲の順位、曲名、歌手名をコールした後、この巨大なミラーの回転扉をくぐって歌手がスタジオに登場する段取りになっている。


スタッフに促され、シンはゲートのすぐ裏に立った。ゲートの向こうのスタジオからややけたたましい司会者たちのトークが漏れ聞こえ、胸の鼓動が高まる。


「今週の…第10位はちょっと待ってください、坂口シンさん!」


待ちに待った瞬間にもかかわらず、司会者のコールはとても唐突に感じられた。

そのコールに背を押されたシンが眼前のミラーボードに手を添えると、ボードはぐるりと回転し、華やかなファンファーレと共に体が自然とスタジオへと躍り出る。

無数の照明が目に入り、眩しさに目が細くなる。


「こんばんは!坂口シンです!」


元気よく挨拶の言葉を放ちながらスタジオに入るシンを、タキシード姿の司会者が笑顔で迎える。


「坂口シンさんは本日、番組初登場になります。この番組では、初登場の歌手の方には記念に初登場曲と本日の日付とお名前を記していただいております」


黒いタキシードを着た司会者が、シンをスタジオ中央の演台の前に導く。

そこに深いブラウンの革表紙の大きなサイン帖が用意されていた。

シンは渡された黒いマジックペンで開かれた真白いページに大きく記した。


“ちょっと待ってください 坂口シン 1988.10.20“


坂の字があまり上手く書けなかった…。

シンがそんな事を気にしたその瞬間だった。


足元から突き上げるような激震が伝わり、シンはよろめき視界を失った。


「え⁉︎」


そして再び顔を上げたシンの目の前に広がったのは、明るく華やかなスタジオではなく、天井から落下する照明機材から逃げ惑う番組スタッフたちの姿と悲鳴、そしてあたり一面に立ちこめる噴煙だった…。


間近で金属の激しくぶつかり合う鋭い音が鳴り響く。

シンは咄嗟に頭を守るため、今出てきたばかりのミラーゲートのセットの中に身を隠した。


「これ、ドッキリ演出…じゃない…よね?」


呟く間もなく、シンの意識は次第に遠のいて行った。


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