エピローグ
あ、死ぬ。液体と固体の中間のような、ぬるんともぷるんとも付かないモノが視界を染め上げて、反射的に目を瞑ることも出来ないまま、青年は悟った。
思えば、つまらない人生だった。貧しい田舎の村で生まれて、どんくさいから疎まれて、少しだけ使えた治癒魔法は、親兄弟にすら気味悪がられた。山一つ越えた町の司祭に、素晴らしい、神の奇跡だと言われたときは、初めて認めてもらえたと舞い上がったが、彼は青年を連れていくと、満足な食事も睡眠も与えず、私腹を肥やすためにこき使った。
青年はどんくさく、人一人治す度に自分が死にそうな思いをしていた。魔法を使う際に消費する生命力を、他の国では魔力、というのだけど、青年は知らない。魔法を使うメカニズムも知らない。それでも苦しみ泣きわめく人々を見捨てるわけにはいかないと、文字通り血反吐を吐きながら、文字通り命を削って治し続けーーー青年も知らなかった司祭の悪事が明るみに出たとき、司祭は言った。
あいつが主犯だ。あいつの魔法は自作自演だ。人々を病気にして、治していたんだ。私は操られていたんだ。
仕方がなかったと思う。ぐい。司祭は長くその町に住んでいて、外面は良かったわけだから、人望があった。片や自分は来たばかり。曇り空のような灰色の髪に、死んだ魚の如く濁った瞳の、薄汚い痩せた男。ごきん。どちらを信じるかなんて、火を見るよりも明らかだ。仕方ない。そうやって諦めればよかったものを、処刑されるギリギリで恐ろしくなって、咄嗟に逃げ出してきてしまった。だからバチが当たって、スライムなんて冒険者なら初歩中の初歩の敵に殺されるのだ。ぎゅん。
走馬灯のように過去のことを考える。沢山の思いが去来するが、そのほとんどは諦めだった。最期の瞬間に考えることも、結局諦めになってしまった。そう悠長に考えたとき、目の前にスライムがいなくなっていることに気が付いた。いや、いなくなっているというか、自分が猛スピードで移動していることに気が付いた。
空へ。
「………………………………は?」
身体が宙に浮いている。死の比喩表現ではない。ぎゅおおおお、と風を切って、空を飛ぶというより、打ち上げられている。大気圏突入、という単語が頭をよぎった。意味は分からない。いや、意味が分からない。何故?固まったまま困惑している間に、上昇速度は段々緩やかになり、止まった。
「えっ………」
一瞬がやけに長く感じた。しかし、その一瞬は永遠ではなく、すぐに景色が逆に流れ始め、どんどん加速していく。喉が千切れるくらいの声が出た。
「ぎゃああああああああああ!!!!!」
落ちてる。死ぬ。マジで死ぬ。みるみる内に近付いてくる地面を直視なんてできないし、風圧で目が潰れそうなので、 ぎゅっと目を瞑った。
「惣士朗さまー!!」
涼しげだが果実のように甘い声が聞こえた。と思ったら腰の辺りが捕まれた。捕まれたというか、噛まれている。痛みは無いので、咥えられている、といった方が正しいかもしれない。生温い湿った感触に、少しだけ当たる固いもの。歯………いや、これは。
「気を付けるのですよファフ子!それ以上力を加えたら死にますからね」
牙だ。ゾッとした。恐怖に際限は無いのだと悟る。
「あっでも、落としても死にます。頼みましたよ」
かわいい声は物騒なことを言って離れていく。青年を咥えているモノから飛び降りたらしい。青年は一層固く目を瞑った。自分の状況を把握出来ていない恐怖と、把握してしまう恐怖。天秤にかけた結果、前者に耐えることにした。これ以上は落ちて死ぬより食われて死ぬより、ショック死の方が早そうだ。
少しだけ太腿と腕に食い込む牙と、右肩の痛みを紛らわすため、耳に意識を集中させる。少し緩やかになった風とばっさばっさという羽の音に混じって、声が聞こえた。少し遠くで、先ほどの可愛らしい声ともう一つ、渋くて低い声がする。
「惣士朗さま!ご無事ですか!?」
「無論だ。おぬしは……」
「きゃーーー!!惣士朗さまがスライムまみれに!!」
「ああ……まあ問題なかろう。それよりあの男は……」
「なんて破廉恥な!!すぐに綺麗にして差し上げます!さあ!!さあ!!!」
「いやいい」
……何か、楽しそうだな。かわいい方は明らかに興奮している。渋い方は呆れてるけど。そんなことを考えていると、どすん!と衝撃が、主に右肩に響いた。地面に叩き付けられたわけではなく、抱えている人が着地したような衝撃だ。と思ったら、ぱか、と口が開いて急に身体が自由になった。どすん!と落ちる。右肩から。
「いっっっっった!!!!」
その衝撃で、ごきん、と脱臼していたらしい右肩がはまった。結果オーライだろうか、いやそんなわけない。めちゃめちゃ痛い。身悶え、呻きながらつい薄目を開ける。巨大な竜の瞳と目があった。
「うわあああああ!!!ぎゃああああああ!!!!」
「元気そうですわ。ほら」
「元気なのか?あれは……」
「うわあああああ!!!ぎゃああああああ!!!!」
スライムどころじゃない、突然の驚異にパニックになる。竜は興味無さげに、迷惑そうに目を細め、そっぽを向いて瞼を下ろしたが、青年はそれすらも分からないまま叫び続ける。
そんな青年に、一人の男が近付いた。彼の傍らには、銀の髪の女。この辺りの町の者ではないことが明らかな、珍しい衣服を着た二人は、男は青年を見下ろし、女は怖じ気付く様子も無く竜に触れ、労るように撫でた。
男に覗き込まれて、青年は我に返る。少し皺の刻まれた異国の相貌。若干白の混ざった夜の色の髪。決して大柄ではないが、服の下でも分かる鍛え上げられた肉体と、腰に差した細い刀。そして、鋭い眼光。息を呑んだ。恐怖ではなく、どこまでも真っ直ぐなその瞳に射抜かれた衝撃。
男は、手を差し出した。
「怪我は無いか」
ほぼ無意識に、ふらふらと手を伸ばせば、あちらから掴まれて、ぐい、と引き上げられる。豆の痕が多く残る手は、固くて強い。自分の骨と皮だけのものとはまるで違う、誰かを守るための手だ。
「あ、ありがとうございま……ヒッ!」
幼い頃、一冊だけあった本に出てくる英雄のようだ。夢のような気持ちで礼を言ったとき、背後から射すような視線と冷気を感じた。おそるおそる振り返ると、冷たく燃える蒼い瞳と目が合った。ヒッ、と再び声が漏れる。
「……ご無事なようで何よりですわ」
女は唇だけで微笑んで、カツカツと歩み寄り、青年の手首を叩き落とした。いっ、と声が出るが、女から発せられるブリザードで凍り付く。
「…………たく、ないです……」
「ふふ」
「クラベリーナ……」
男が呆れたように名前を呼ぶと、女の氷は瞬時に溶ける。はい、と歌うように返事をしつつ、指を絡めて腕を絡める姿は、どう見ても付き合いたてのカップルで、彼女の怒りの理由がよく分かった。あっそりゃお邪魔ですよね、すみません。デートの邪魔をして……デート?こんな魔物が出るような夜の森で?竜と?
「あまり触るな。おぬしまでスライムが」
「いいのです。私が洗って差し上げますから。身体で」
「何がいいんだ何が。離れろ」
「絶対嫌です」
「泉しかなかろう!駄目だ!」
「50km先に温泉があるそうですよ?」
「そうか、なら…………そういうことではないわ!!」
「まあまあ。とりあえず参りましょうか」
「あっ!!ま、待ってください!!」
困惑する青年もそっちのけで会話を繰り広げていた二人が、竜に向かって歩き出したところで、我に返る。慌てて引き止めると、男は相変わらずの仏頂面で、女はツンドラの空気を纏いながら振り返った。一瞬怯んだが、好奇心の方が勝った。
「あ、あなたたちは……!?」
凍り付く男と、花開くように笑う女。長い長い沈黙の後、目の前の青年の真っ直ぐな瞳と、ほらほら、と心底楽しそうな隣からの催促に押し負けて、重々しく唇が開いた。
「………………拙者、勇者に婚約者を寝取られ濡れ衣を着せられパーティーを追放されたが、今はヤンデレ幼な妻とイチャラブ新婚侍……………………」
「私はその妻、ヒロインに婚約者を寝取られ冤罪で断罪され婚約破棄られた令嬢でしたが今は運命の旦那さまとイチャラブ新婚妊婦です」
羞恥に震える声とはしゃいだ声が、重なる。
「義によって助太刀いたす……」
「義によって助太刀いたします♥️」
最後までお読みくださりありがとうございました