5話
生駒吉乃邸で奉公をしていると夕暮れ織田信長がやってくると奉公婆が藤吉郎に告げた……
吉乃と会った翌日正午……
「夕暮れに殿様来るわ」
いつものように廊下を雑巾で拭いていると奉公婆が近寄ってきて唐突にそう告げた
「……え?殿様?信長様か?!」
床を拭くのを止め婆の顔を見つめそう尋ねる
「日暮れ頃に来られるんだって、おみゃあさん控えとりゃあせ、わしのやる事みとりゃあて」
婆がニヤリと笑みを浮かべる
「何をしなされるん?わしもなんかしてえわ」
藤吉郎はじっと婆を見つめ立ち上がった
「来られる前に床になんもないように拭いたりよ、まあ、お食事は係りのもんが運びなさるけど、お汁とか廊下にこぼしとらんか見よったり、あとはお履き物整えたり、廁(便所)の汚れないか見たりとな」
そう言いながら婆は廊下を見渡す
「いつもと変わらんがね」
廊下を見渡す婆に背中越しにそう言う
「殿様来られたらちゃあんと頭下げんとかんで?おみゃあさんベラベラ喋るで調子こいとったら仕打ち受けるがや」
藤吉郎を見詰め婆がまたニヤリと微笑む
「その方がええがや、顔覚えてもらえるもん」
藤吉郎もニコッと微笑みそう告げた
藤吉郎『信長様が来られるか…………なんとか覚えてもらわんと……そん為に奉公しとるんだぎゃ』
夕刻
下の者「かいもーん!かいもーん!」
屋敷の門がゆっくりと開く
奉公婆「殿様来られたで頭さげとき!」
玄関に座る侍女達に混ざり奉公婆と木下藤吉郎が正座をし、頭をさげる
藤吉郎「…………」
門から馬に乗った青年1人だけが姿を現すと、すぐに門が閉められる
青年は馬から飛び降り下の者に馬を預けるとそのまま玄関に入り、
無造作に草履を脱ぎ捨て、ドンドンと足音を立てて足早に奥へと消えていった
玄関で頭を下げる藤吉郎達の前をあっと言う間に通りすぎて行ったのである
奉公婆「お履き物、お履き物揃えて」
藤吉郎「はい!」
青年、織田信長が脱ぎ捨てた草履を整えた時……
ドンドンドンドン……
遠ざかったはずの足音がまた近づいてくる
そして足音が藤吉郎の前で止んだ
『えっ?』と思い頭をあげると端正な顔立ちの青年、織田信長がそこにいて藤吉郎をじーっと見詰めていた
信長「おみゃあこっち来たんか!」
藤吉郎「は、はい!!那古野の城よりこちらについ先日に」
信長「おみゃあおもしれえ面しとるで知っとるわ!!馬引いとったろ!!」
藤吉郎「はい!!」
信長「ふっ!名は?」
藤吉郎「木下藤吉郎と申します!!今後とも織田家の為に精を尽くします!」
信長「ははは、良いわ!今からわしは床に就くで明朝まで待っとれ!貴様!城に戻してやるわ!」
ドンドンドンドン……
足音が遠ざかる
藤吉郎『話し掛けてもらった……話し掛けてもらった……話し掛けて……』
あっという間の出来事であったはずなのに強烈な瞬間であった
馬を引いた時に一目惚れしたあの大殿様に声をかけられ、針売りのみすぼらしかった自分が遥か目上の方に名を名乗れた事
それとあの力強い足音の響きが藤吉郎の頭と胸に強く刻み込まれた
普通のお方ではない、と……
それから数時間、藤吉郎は玄関に居り、信長の草履を抱き締めていた
奉公婆「……なにしとんのあんた、もう下がってええって」
藤吉郎「ええがや、大殿様持っとれ言うとったし、わしに出来るもんこれぐらいしかねえて!」
奉公婆「そこまでせんでもええがね、あんたも冷えるで」
藤吉郎「ええんだわ!ここまでせんとかんのだわ!」
奉公婆「……腹減りよるでしょう、焼き味噌の餅でも持って来ようか?」
藤吉郎「頼みます…」
奉公婆「ほんまたわけたお方だわ」
藤吉郎『…………わしは侍になるんだわ!ほんで信長様についてくわ!今日決めたでよお!!』
木下藤吉郎は早朝までひたすら草履を抱き締めていたと言う……