8 伊勢海老界にトリップしたい!?
幼なじみの高宮佳代子は、美人だ。沈みゆく夕日の赤色光が、彼女をこれでもかと、オレンジ色に染め上げる。女っぽくないショート・カット。『お母さん、また前髪切りすぎちゃったんだよ』とは、今朝の彼女の弁。でも、短すぎる前髪の下にはきりりと意志の強そうな眉毛と、好奇心に輝く黒い瞳と。それを縁取る、平均的な長さのまつげと。
彼女のその輝く双眸が、おれをイタズラっぽく見つめてわらう。
「ユウくんは、夢って、ある?」
「あるよ。あるある。いつか、手塚治虫みたいな漫画家になるんだ」
「ふうん?」
彼女はすこし首を傾げて、歩いて前に進んだ距離から、肩越しにおれの顔を伺い見る。
「あたしはねー。伊勢海老界にトリップして俺TUEEEEEEEして、素敵な美少女をお嫁さんにするんだ」
伊勢海老界って、どこ?
そんな彼女も高校を無事に卒業し、卒業証書を手にしたまま、謎の失踪を遂げた。
そうか。ついにやったんだな。
伊勢海老界に行ったんだな。
おれはそう信じて疑わなかった。
おれは。
フツーに大人になって。
フツーに毎日を暮らしている。
彼女がどうなったのか、どうしているのかーー
気にならないわけじゃ、ない。
職場の人間関係に疲れ果て、繰り返す日々に絶望するような日。
おれは、会社の西側の食堂から、沈みゆく夕日を眺めることにしている。
『ユウくんは、夢って、ある?』
彼女はあの日の夕暮れのままに振り返り、おれに尋ねる。
「生きるために要らない夢は、切り捨てるべきだ。子供のころに見た夢なんて、たいてい、どれも、かなわない。夢を見続けてダメになるより、現実の一歩を大切にするべきなんだ」
『ふうん?』
彼女は微笑む。あの日のままに。
「それで、ユウくんは、強くなったの? 弱くなったの?」
「わからない」
未だ何者にもなれないまま、ただ漫然と日々を生きてる。上司に怒鳴られたり、誉められたり、飲みに行ったり、行かなかったり。
「夢なんか見ないと決めたんだ。他のどこにもいない、今、此処のおれを生きるために」
『そう。』
風が動いて、彼女の短い髪をさらう。
伊勢海老界なんて、ないよ。少なくとも、おれはそこへは、行けなかった。
ただ、逃れられない現実だけを突きつけられて、日々を生きてる。
だけど疲れた時には、いつもーー夕日の中の彼女の微笑みを思い出す。