十三、兆し 1
ネイテがアイラたちを追って行ったというクドゥルの推測はほぼ当たっていた。
ミシアとの運命的な邂逅に興奮して眠れなかったネイテは、夜中、ついにじっとしていられず起き出して、気もそぞろに建物の中を徘徊していたのである。何度か不寝番に見咎められ言い訳を繰り返すうち面倒になってしまい、灯り一つ持たずぽつんと庭の隅に座り込んでいたのだ。
そんな折、離宮を出て行く一行を目撃した。目撃と言っても、植込みの向こうに小さな人影がちらりと一瞬、見えたような見えなかったような、薄い色の髪が月の光に浮き上がったようなそうでないような、普段だったら見間違いだと片付けてしまう程度のことだった。
ミシアのことばかり考えすぎて彼女の幻を見たのかと思ったが、なにやら胸が騒いだネイテは影の消えた方へ行ってみた。誰にも見つからないまま通用口の前へ出たネイテは、カシャンと小さく門扉が閉まる音を聞いた。
通用口の門番はやけにふらふらとしてぼんやりよそ見をしている。ネイテが近づいても反応がない。様子のおかしい門番に声をかけるべきか迷ったが、自分の見たものをうまく説明できる自信がなかった。結局、ネイテは出て行ったらしき人物を追う方を優先した。
鍵も簡単に開いていたので、ネイテはすんなりと離宮の外に出ることができた。
花籠離宮は木々に囲まれていて、通用口からは馬車も通れる道がつけられている。人の気配はなかったが、一本道である。ネイテは何度も周囲を見回しながら、そろそろと歩き始めた。
ここからが少々クドゥルの予測を超える。
夜明けまで一刻あまり。西の空に月は出ていたが、夜の暗さの中でネイテは方向を見失った。ところが、彼女は奇跡的にアイラたちが辿ったものと同じ山道に迷い込み、倍ほどの時間をかけて坂道を上り、離宮を見下ろす場所で時間をつぶしていたアイラたち一行に乱入したのである。
そういうことなので、正確には尾行されたわけではなかったのだ。
メルは胡乱なものを見るような目で問いかけた。
「つまり、ここへ来たのは偶然?」
「きっとナリサの導きです」
ネイテは真面目に答えた。アイラを相手に幼馴染のナリサの思い出をぽつりぽつりと語るうちに落ち着いたらしく、今はすっきりした顔をしている。
「みなさんは、どうして先に進まずにここに隠れているんですか?」
「ちょっとした用心だよね。あと、情報収集」
ネイテは不思議そうな顔をした。それはそうだろう。普通は誰もいない山の中で情報は手に入らない。しかし、メルなら話は別だ。
こうした自然に近い場所には、数の多少はあれ、メルが小さきものたちと呼ぶ幼く儚い精霊たちがいるものだ。昨日の離宮での騒動に彼らが気づかないはずはない。精霊の振るう攻撃的な力は、きっとここからでもはっきり感じ取れたことだろう。
アイラを襲った精霊について、何か気づいたことや知っていることがあるかもしれない。
ネイテが飛び込んできたのは、ちょうどメルが彼らと話している最中のことだった。
彼らは基本的に単純で気紛れだ。山に入ったネイテを見たものもいたのに、それをメルに伝えなかったのも悪気があったわけではない。ただ、それほど興味を引く出来事ではなかっただけだ。
「おい。気づいたみたいだぜ」
離宮をうかがっていたソランが言った。
「あ。もうそんな時間?」
「気づいたって何にですか?」
「わたくしたちがいないことに」
アイラが答えると、ネイテはええっと声を上げた。
「こんな近くにいたらすぐに見つかっちゃいますよ。どうするんですか?」
「クドゥル様はわたくしたちを探さないわ。だから、見つからない」
ネイテは眉間にしわを寄せて身を乗り出した。
「探さないなんでそんなはずありません!」
「ネイテもいなくなっちゃってるからね。絶対とは言い切れないけどさ。もし探すとしてもここはないよ。近くの町へ向かう道沿いを調べるよね。普通は」
「クドゥル殿下が姫さんをそう簡単に手放すとは、俺はちょっと信じられねーな。草の根分けても追っかけてきそうだ」
「だから、それは間に合う可能性があるときだよ」
「見切りをつけるには早すぎるだろう」
メルはにっこり笑った。
「クドゥル王子は、ソランを抱えて空を飛びそうだくらいのことは思ってるかもしれないよ」
「……できるのか?」
「やろうと思えば。疲れるからしないけど」
けろっとして言うメルに、ソランはちょっと頬を引きつらせた。こんな少女に抱えられるのは非常に有り難くない。
「なんだかよくわかりませんけど、ここにいれば見つからないんですね?」
「そうよ。安心して。わたくしたちが行かなければならないことを、クドゥル様はわかってくださっているわ」
アイラは揺るぎのない口調で言った。
「だから、わたくしの好きにさせてくださるのよ」
メルは意外そうな驚きの表情でアイラを見た。
「今までだってそうだったわ。いつも、わたくしが自由でいられるように力を貸して下さった。わたくしが王宮で異質なのは、わたくしが馴染む努力をしなかったからなのに。いつも自分が楽なほうを選んで、勝手ばかりしてきたわ。だから、リエラはわたくしにもっと王女らしくした方がいいと言うし、お父さまも義務を一つも果たさない役立たずだって」
「アイラ」
思わず咎めるように名を呼んだメルに、アイラはやわらかい眼差しを返した。
「卑下しているのではないのよ。本当のことですもの。わたくしが水蘭館に一人で閉じ籠っていることだって、本当はよくないのよ。でも、わたくしのしたいことをしたらいいと、そのままでいいって、王宮でそんなことをおっしゃるのはクドゥル様しかいない」
アイラは珍しく熱心に言葉を連ねた。
「昨日、クドゥル様はこう言ってくれたの。アイラは理由のないことはしない。いつも、わたくしなりの動機があると。そんな場合ではなかったのに、変に落ち着かない気持ちになったことが不思議で……でも、今はわかるわ。わたくし、嬉しかったんだわ」
メルは新鮮な驚きをもってアイラの言葉を聞いた。
「アイラ、なんだか、変わった?」
「メルが気づかせてくれたのよ。戻ってきて、教えてくれた」
アイラは瞳を和ませた。
「今まではね、メルたちがいてくれることが当たり前すぎて、そのことに疑問を覚えたことなんかないと思っていたけれど、やっぱり、心のどこかでは、どうして? と思う気持ちもあったんだわ。だって、精霊がそばにいるのはわたくしだけなんですもの。他の人には守護してくれる精霊なんていない。でも、疑問に思う気持ちから目を逸らし続けていたのよ。だから、一度も尋ねなかったし、知ろうともしなかった。それを突然目の前に突きつけられて、怖くなって、自分の中だけで結論を出して、逃げたのよ。ちょうどよく逃げ道が見えたから、そこに飛び込んでしまったの。自分から手を離してしまった方が、傷つかなくてすむもの」
アイラはメルを見つめて、今度こそはっきりと微笑んだ。
「でも、そうすることでメルを傷つけてしまったのだとわかったとき、わたくし、わかったの。うまく言えないけれど……自分が大切にされていること――そう思ってもいいのだと。そうしたら、わたくしを好きでいてくれる人が他にもいることに気づくことができたの……」
メルは驚愕のあまり、目と口を開けて固まった。
衝撃だった。
進歩だ。素晴らしい進歩だ。
自分へ向けられる感情には好悪の別なく目隠しし続けてきたアイラが、自分への好意を自覚した。
「クドゥル様は、わたくしが窓から飛び込んできたって、部屋を滅茶苦茶にしたって、驚いたなって笑って、わたくしの心配をしてくれるの」
これ、クドゥル王子には聞かせたくないなあ。と心の狭いことをメルは思った。
アイラは疑いのかけらもない澄んだ眼差しをメルに向けている。
変わらずきれいだけれど、どこか違う。今までにない強さのある目だ。そして、ふと気づく。メルは同じ強さを宿した瞳を、昨日の夜にも目にしていた。
思い返せば、そのときには既にアイラに変化の兆候があったのだ。
時間にして、半日ほど前。
部屋が滅茶苦茶になってしまったために一時避難先となったテラスから、白百合の間に場所を移した後、口火を切ったのはメルだった。
「まず、そうだね。僕が何かってとこから始めようか」
メルは一同――アイラとクドゥルとソラン――を見回して言った。
「僕は精霊と呼ばれるもので、名前はメル。契約によってアイラの守護者となり、ちょっと前にアイラによって契約を破棄された。この辺は僕とアイラの会話から察しはついてると思うけど」
クドゥルとソランは黙ってうなずいた。
「契約が切れた衝撃はすごくって、僕たちは全部で五人いたんだけど、一気に吹き飛ばされた。弾けた豆みたいにバラバラにね。僕は、そんな遠くまで飛ばされるのは御免だったから、自分の楔となって繋ぎ止めてくれるものを探して、まあ、それがこの身体だったんだよ。条件に合う身体が近くにあって運が良かった。咄嗟につかまって、貸してほしいってお願いしたんだ。彼女は快く身体を貸してくれたよ」
無茶苦茶な話だが、疑っても始まらない。現実に、少女の体の中にメルがいる。
「身体を動かせるようになるまで少し時間がかかったけど、できる限り急いでアイラのところに戻った。守護者がいなくなったとわかったら、アイラに対して行動を起こす精霊が出てくる可能性があったから。嫌な予感はあったんだけど、ずいぶんと過激なのが来ちゃってて、焦ったよ」
「なぜ精霊がアイラに危害を加えるのです?」
クドゥルは黙って聞いていられず口を挟んだ。
「危害だけとは限らないけど、今日のあれを見ちゃったら心配になるよね。でも理由は言えないんだ」
「言えない?」
「そうだよ。僕の一存で話していいことじゃないし、クドゥル王子が知ってもできることはないからそこは気にしないで」
柔和な口調で辛辣なことを言う。
「姫さんにもかい?」
ソランの声は重く響いた。
「一つ言わせてもらえば、あれは、命を奪うつもりで仕掛けてきてたぜ。もう子どもじゃあねえんだ。その理由を当人にさえ教えねえってのはよくねえよ」
「知ったら危険が増すことだってあるんだよ」
「もう十分危険な目に遭ってると思うがな」
「アイラが知ることで情勢がどう変わるかわからない。今はまだ、さっき襲ってきたような考え方は少数だと思う。けど、そっちに雪崩を打たれても困る。こっちの態勢だって万全じゃないんだ」
「それは、守護者があなた一人しかいないことを指しているのですか?」
「それもあるし、僕自身の問題もあるね」
「あなたの問題とは?」
「この状態はやっぱり不自然なんだよ」
「メルは、早くそこから出た方がいいのね?」
アイラは遠くを見るように目を細めた。
落ち着いて見方を変えてみることで、初めて身体の本当の持ち主の姿を見つけることができた。彼女は、左耳を飾る小さな宝石の中で眠っており、その印象はとても儚いものだった。
「その子は弱っているようだし、メルも少し翳っているように見えるわ」
「半分当たり。僕が万全といえないのは肉体を得た結果だけど、この子が弱っているのは最初からだよ。これでも回復した方なんだ」
「そうなの?」
「昏睡状態で、今にも死にそうだったんだよ。僕が引っ掛かったことでかろうじて命がつながったっていうか」
「ということは、一人で動けるはずのない危篤の子どもが忽然と姿を消した怪奇事件になっているということか?!」
「怪奇事件とかの前に、どんな状態だろうと子どもがいなくなりゃあ騒ぎになるだろうよ。まったくそこに頭が回ってなかったわ。小奇麗な格好してるし、保護者がいるよなあ。きっと探してるぜ」
「危篤だって報せても本人はおろか使いすら寄こさない薄情で業突く張りの父親しか身内はいないそうだから、そこはもうしばらく目をつぶってよ」
聞くまでもなく、その父親評はこの身体の持ち主の言なのだろう。なかなかきつい性格なのかもしれない。
「その少女の身元は?」
「王都東オトヤ区流鈴通りの織物商バガデの娘ミシア」
メルはすらすらと答えた。
「ダードスィル織物か。そりゃあ結構な大店じゃあねえか」
ソランは驚きを示した後、なにか引っ掛かったようで眉間にしわを寄せた。
「どうした?」
「その娘の名前に覚えがあるような……なんだったっけなあ」
ソランは首を捻って考え込んでいるがさっぱり思い出せないようだ。
クドゥルは待つのはやめてメルに話しかけた。
「あなたが身体を借りている少女と話せますか?」
「今は眠ってるから話せない。起こすこともできるけど、まだ休ませてやったほうがいい」
「わたくしもそう思うわ」
「この子には助けてもらったからね。だから、僕はまだ、ここから出られない」
「わかった。念のため、ミシア嬢のことは調べておこう。彼女が目覚めたとき役に立つかもしれない」
「それがいいかもね」
クドゥルは頷いて、話を戻した。
「あなたが本来のかたちに戻り、守護者が五人そろえば、アイラに危険はないと思ってよいのでしょうか?」
「そうとも言えない。手出ししにくくなることは確実だし、安全度は増すけど、絶対ではない」
「しかしこれまでは……」
クドゥルは言い掛けて言葉を止めた。
「ああ、そうでしたね。以前と違う点がある。あなた方が契約を結んだ上での守護者ではないことが関係しているのですか?」
「鋭いね。それは大いに関係しているよ」
「全員と契約を結び直せばいいのかよ?」
「わたくしは再び契約を結ぶつもりはありません」
三人は一斉にアイラを見た。
「あのな姫さん」
「必要ありません」
取りつく島もない。メルは楽しそうに笑った。
「そうだね。この場合、もう一度契約することにはあんまり意味はないし」
「だったら、姫さんはずっと狙われたままで、その理由もずっと隠しておくってことか?」
ソランははっきりと難色を示した。
「もう。このままでいいなんて僕は少しも思ってないよ。それから、さっきも言ったけど、僕が勝手に話していいことじゃないんだよ。たとえ、アイラにだってね」
「多数決でもするのかよ」
「いつ話すかは多数決かな。僕はせめてあと二人は戻ってからにして欲しいところだけど、他の意見もあるかもしれないしね。でも、アイラに話すか否か、その答えは、ギルが持ってくるはずだよ」
アイラは思わず口を挟んだ。
「ギルが?」
「あ、ギルってのはアイラの守護者の一人で、もともとこれはギルが任された問題で、僕たちはギルの協力者であると同時に監視者なんだよ」
メルは向かい合っているクドゥルの顔を見て、すました顔で尋ねた。
「どうしたの? 変な顔してさ」
「それは、かなり内部の事情のような気が――話してしまっていいのですか?」
「僕たちにもいろいろあるってわかるでしょう? そのギルがいつ合流できるかは、今のところ不明」
クドゥルとソランは同時に渋い顔になった。
「ギルに限らず他の三人にも言えることだけど、あと数日で戻ってこなければ、勢いのままかなり遠くまで飛ばされたと思っていい。それで、ああいうときに引き寄せられる場所は縁の深い場所になるんだよ。だから、どこへ行ったかだいたい予想はつく。つまりね、久しぶりに会った馴染みの精霊たちに引き止められて、動けなくなってる可能性が高いかなーなんて……」
「そんな理由で戻らねえのか? 守護者がいなくなったら姫さんに危険が及ぶ可能性は認識してるんだろう?」
「そうなんだけどね。平たく言えば、閉じ込められたりとか、してるかも?」
「はあ?」
「どういうこと?」
「それは、今日アイラを攻撃してきた精霊に協力する行為のように思えるが」
三人に同時に詰め寄られ、メルは上体をのけ反らせた。
「まあ、いろいろ事情があるんだよ。やってることは一緒でも、思惑はそれぞれだよ。アイラのことが眼中にない精霊だってたくさんいるわけだから」
メルは、先ほどテラスで言った台詞をもう一度口にした。
「だから、迎えに行った方がいいかもしれないんだよ」
「わたくし行くわ。会いに行きます」
アイラは間髪入れずに宣言した。
あまりの即決ぶりに、クドゥルは半ば反射的に反対した。
「アイラ! まだそう決めるのは早いのではないか?」
「そりゃあ、早く五人そろってもらった方がいいんだろうけどよ」
「守ってもらいたいから、行くのではないの。ただ、もう一度会いたいの。早く、みんなに会いたい。会って、たくさん謝らなければいけないわ。それから、ありがとうって、大好きって、伝えたいの」
アイラはゆっくりと話した。一つ一つの言葉を、大切に大切に音にしているのだとわかった。抑揚は押さえていたが、震えるような思いが伝わってくる。
「わたくし、みんなに会いたい」
アイラと視線が交わる。メルは、きれいな目だと思った。
その目と、同じなのだ。
メルの中で、昨夜白百合の間で見た記憶の中のそれと、目前のそれが、ゆっくりと重なる。
ああ、やはり、そうなのだ。
今、アイラは、昨夜「みんなに会いたい」と言ったときと同じ眼差しでクドゥル王子のことを語っている。
清々しい朝の光を浴びて、アイラの銀の髪が白くきらきらと輝いた。
「クドゥル様は、わたくしのすることを信じてくれているわ」
そこに生まれた強さは、相手の想いを自覚して受け止めたからだ。
この先、揺らぐこともあるだろう。けれど、今はその変化が眩しかった。
「そうだね」
アイラが閉じられた狭い世界から外へ出て行く日は、そう遠くないかもしれない。メルは、一抹の寂しさを感じながら頷いた。




