一、秘密の約束 2
暁の館へ戻るリエラを見送ったアイラが寝室へ戻ると、枕元の小棚の上にリボンの結ばれた籠が置いてあった。
時々、リエラはこうやって贈り物を残していく。
リエラに寝台から引っ張り出されるときのアイラは半分眠っている状態なので、いつもそこまで気が回らない。リエラが帰った後に気づくことがほとんどだ。
籠に被せてある薄布を取ると、黄緑色のひらひらとした布が入っていた。いや、入っているのは服で、見えている部分はどうやら袖のようだ。両袖の端を摘んで持ち上げたアイラは、その下から現れたビーズ刺繍に既視感を覚えて小首を傾げた。
「お揃いだねっ」
アイラしかいない部屋の中で、出し抜けに元気な少年の声が響いた。普通なら飛び上がって驚くところだが、アイラにとっては単なる日常だ。
まだ声変わり前のカタムの声は高く澄んでいてよく通る。しかし同時に、頭上から降ってくるような、耳のすぐそばから聞こえるような奇妙な距離感があった。そうした聞こえ方の時は、声だけで姿はないと経験的に知っているアイラは、見えない声の主を探したりはせず、繊細な刺繍模様を見つめたまま頷いた。
「本当。色違いのお揃いだわ」
リエラの着ていたものは裾と袖に珊瑚色のぼかしの入った若芽色だったのに対し、アイラの手にしている衣装は白だ。真っ白ではなく黄色味がかった優しい白で、明るい黄緑のぼかしが入っている。
「きれいな色だね。リエラ王女は趣味がいい」
今度は、柔和な印象の青年の声が降ってきた。
メルは案外リエラを気に入っているようで、時折こうして褒め言葉を口にする。それを聞いたアイラは、まるで自分が褒められたように嬉しそうに目を細めた。
「そうねぇ。流行のことはよくわからないけれど、あの子の装いはいつもすてきね」
「確かに自分を引き立てるものを選ぶのもうまいが、アイラに似合うものもよくわかっている」
太く響く温かみのある声が新たに会話に加わった。
アイラは昔からこの声を聞くと安心する。セリムの穏やかで落ち着いた口調は豊かな教養と安定した精神を感じさせ、寄りかかってもびくともしない頼もしさを思わせるからかもしれない。
「その衣装もきっとよく映えるだろう。それだけに、身につける機会が少ないのは寂しいことだ」
「うん。アイラがそういう服着るのって、お父さんのとこに行くときぐらいだもん。ちょっと、勿体無いよねー」
寂しいとは思わないが、勿体無いという気持ちはアイラにもあったので、こくりと頷いた。
セリムやカタムの言う通り、リエラの持ってくるものはあまり実用的ではないので、アイラの日常には必要ないものが多い。そもそも、アイラはリエラのように舞踏会に招かれることも、茶会を主催することもなければ、公式行事に出席することもない。社交というものに縁がないのだ。
それに、アイラは睡眠時間こそ多いが、日々ぼんやりと過ごしているわけではない。それどころか、起きている間はこまごまと働いていると言っていい。待っていても食事は出てこないし、掃除をしなければ埃は積もるし、庭は荒れていく。つまり、普段からひらひらした服を着るわけにはいかないのである。
頼めば小間使いくらいつけてくれるだろうとは思う。けれど、それでは彼らとこんなふうに話せなくなってしまう。それよりは、今のまま彼らに手伝ってもらいながら一人でいたほうがいい。そして、この生活を続ける限り、リエラの贈り物はほとんどが箪笥の肥やしとなる運命だ。
「せっかく選んでくれているのに申し訳ないと、思っているのよ。もう少し動きやすいものならいいのだけれど……」
「リエラ王女が『お揃い』にこだわってる限り、無理だろうねえ」
メルが言うと、アイラは不思議そうな顔をした。
「どうかした?」
「こだわる、というほど、同じものが多かったかしら……?」
「ええっ! 気づいてなかったの?!」
カタムが驚きの声を上げる。
「お揃いだらけだよ! この前のショールもそうだし、蝶の彫金の腕輪もそうでしょ。それに、色硝子のついた靴も、銀刺繍の飾り帯も、藍玉と真珠の髪飾りもそうだって。数え上げたらきりがないよ?」
リエラから贈られたものはしっかり覚えている。だから、カタムの挙げた品物はすべて頭に思い浮かべることができる。けれど、腕輪以外はお揃いだと気づいていなかったアイラは少し驚いた。
「まあ。それが全部?」
「――僕、ちょっとリエラ王女に同情したかも」
「その辺りは半分くらい諦めてるんじゃないかな」
「アイラは本当にそうしたことに興味がないのだね」
笑いを含んだセリムの声には、残念そうな響きも少しだけ混じっていた。そんなふうに言われると困ってしまうのだが、仕方がない。
「身だしなみに気をつけることはいいことだと思うわ。美しいものも好きよ。でも、リボンの幅一つとって騒ぎ立てるほど熱心にはなれないもの。そういうことに一生懸命なリエラは可愛いと思うけれど、同じようにはできないわ」
アイラの態度は首尾一貫している。尊重するが、同調しない。だから、リエラの話を遮るようなことはしないし、真面目に最後まで聞く。聞き手としても優秀だ。さりげない仕草や相槌で巧みに話の先を促し、気持ちよく相手を喋らせる。しかし、最終的な反応が期待を裏切って鈍かったり的外れだったりで、聞き流していたのではと疑われることもしばしばだ。
「でもね、リエラが選ぶものは好きよ。このドレスも、とてもきれい」
アイラはドレスを大切そうに腕に抱え、衣裳部屋にしている続き部屋へ向かった。それを、カタムの声が追いかける。
「お礼に行くでしょ? 何のお花持ってく?」
アイラは少し考えてから答えた。
「東側の薔薇にしましょう」
「うん、いいね。ちょうど咲きご――」
「おい。いい加減にしろよ」
割り込んだ声は、ひどく不機嫌だった。
「まあ、どうしたの。ゼラ」
アイラは思わずそう言った。ゼラは、基本的にリエラの話題には口を挟まないのに、珍しい。
「黙って聞いてりゃあいつまでも。そんなもんより大事な話があるだろーが」
ゼラの声は刺激的でいてかすかに甘い。そのせいか、言葉遣いが雑なわりに粗野な印象は薄く軽妙な雰囲気があるのだが、今は苛立ちが言葉尻をきつくしている。
剣呑な空気にカタムは一瞬口ごもったが、すぐに明るい声で言い返した。
「わざとじゃないもん」
すると、素早くメルが後を引き継いだ。
「ゼラも性急だね。言うほど時間は経ってないよ?」
対する答えは文句をつけたゼラではなくセリムから返った。
「だが、楽しめない話題は長く感じるものだ」
「そっかぁ。いつもなら黙殺してるのに、今はいつ終わるかなーって耳をそばだててたから余計に苛々するんだー」
「それで当たられても困るよねぇ」
「リエラ王女に直接ぶつけるわけにはいかないからだろう」
「えー、八つ当たりなのー?」
口を挟む隙を与えない絶妙な呼吸の会話だった。代わる代わるからかい混じりの台詞を投げかけられ、ゼラはいつもの調子を取り戻し、面倒そうに言った。
「俺の分析はしなくていいって」
笑った気配が幾つかしたところで、アイラは改めて尋ねた。
「大事な話とは何?」
「今日のリエラ王女のお願いのことだよ」
メルの優しい声が言った。
「それが、大事な話なの?」
首を傾げるアイラに、今度はゼラが力を込めて言う。
「他にないだろ。花冠の乙女を譲れって、ありゃあなんなんだ?」
「あの子のお願いなんて珍しくもないでしょう?」
リエラがアイラを寝台から引っ張り出してまでお茶に誘うのは、何か頼み事があるときだけで、それは頻繁とまでは言わないが、よくあることだ。
ゼラはふん、と鼻を鳴らした。
「そんなこたぁ百も承知だ。アイラが自分に甘いとわかってて付け込んでんじゃねえかってくらいの図々しさも今に始まったことじゃない。だから、そういうことを言ってるんじゃねえよ」
メルが一番リエラに好意的だとすれば、ゼラは反対だ。とにかく評価が辛く、否定的でさえある。
「あのお嬢ちゃんのやることにいちいち腹なんか立ててられるかっての。俺が言ってるのは、アイラの方だ。事情も聞かねえで簡単に承諾しすぎだろ。せめて、武術大会の趣旨くらい確認しろよ」
「どうして?」
聞き返しながら、アイラは持ってきたドレスをやはりリエラに贈られた淡い紅色の衣装の隣に掛け、代わりにもっと丈夫で簡素なデザインの服を取り出した。
「アイラのための大会だって言ってたじゃねえか。気になるだろーが!」
「わたくしは気にならないわ」
アイラの返答は素っ気無い。リエラは当然知っているものとして話していたようだが、実は初めて聞くことばかりだった。しかし、自分のことなのに知らない、ということがアイラには多々あったし、それで困ったこともない。
「わたくしに花冠の乙女を務めさせようなんて、酔狂なこととは思うけれど」
リエラに『譲って』と言われたときは少し驚いた。譲って欲しいということは、アイラが花冠の乙女を務める予定があるということだ。その話自体が初耳だったこともあったし、花冠の乙女などという華やかなものと自分に関わりが生じたことが意外だった。
花冠の乙女とはボーマルッカの建国伝説に因んだしきたりで、武術大会の優勝者に冠を授ける乙女を指す。一般的に少女が憧れるものの代名詞であり、選ばれるのは大変名誉なこととされている。
地方でその土地の領主や名家によって執り行われる大会などでは、近隣の町村で最も美しい少女が選ばれる慣わしだ。また、三年に一度王都で開かれる大武術大会では、貴族がこぞって自分の娘にその栄誉ある役を勝ち取らせようとする。
確かリエラは二年前十三歳の時、その大会で花冠の乙女を務めたはずだ。
すべての試合が終わり、優勝者が決まるまで、乙女の顔はベールの奥に隠されている。リエラがベールを取り去った時、まるでため息のような感嘆の声が広がったと父王が言っていたのを思い出す。
アイラのそういったことに関する情報源は身内に限られるので、客観性に疑問があるが、リエラが滅多にいない美少女であるのは事実である。アイラとて人並みの審美眼は持っているから、美しいものを見て美しいと判断する基準は一般的な感覚とそうかけ離れてはいない。
アイラは妹が非常に華麗な少女であることを素直に認めていた。
こうした感覚が、非常にあっさりしている。
年頃の少女としては多少の嫉妬を覚えるのは当然の成り行きであろうし、ましてや、姉妹である。しかし、アイラは美しさという点で自分と異母妹を比較して悲観したり卑屈になったりしたことは一度もなかった。甘そうな蜜色の髪や最高級の緑柱石をはめ込んだような瞳が欲しいと思ったことはある。けれど、それは美しさに憧れたわけではなく、まったく別の理由からだ。
アイラは事実を知らないのではない。大輪の花のようなリエラを前にすると、自分が明らかにかすんで見えることもよく知っている。知っていて、同い年の異母妹に向ける眼差しに羨望も嫉妬もない。
それは彼女が聖人君子だからでも、そういう感情が欠落しているからでもない。容姿の良さ――美貌というものにこれといった価値を感じていないだけだ。
それは、生来の性格もあるが、環境に因るところが大きい。
アイラは、普通は見えないものが見え、聞こえない声が聞こえる。しかもそれは一方通行ではなく、ささやかながら交流と呼べるものがあった。水蘭館にはけっこうな数のそうしたものが棲みついていたし、季節ごとに立ち寄るものもいた。
その中には、リエラが見たら卒倒しそうに醜悪な外見のものや、竦んでしまいそうに恐ろしい姿のものもいる。逆に、魂を奪われそうに綺麗なものや、愛らしいものもいる。同じ水妖でも、輝く虹色の尾ひれを持つ宝石のような姿から、無数のイボがある弛んだ皮膚にぎょろりとした目を持つものまで様々だ。アイラの視界の中には、多種多様な姿のものたちが存在している。
もちろん、諍いなく皆が仲良くしているわけではないし、ある種の格のようなものは存在するようだが、大方の好き嫌いは性質の相性によるもので、外見に優劣をつけ特別扱いしたり差別したりすることはなかった。有体に言えば、美しいから得をする、醜いがために損をする、ということがない。彼らが嫌悪するのは感情の濁りによって生じる汚れや澱であり、外見は関係ないのだ。
本来の同胞である人間と接する時間よりも、怪魔や精霊、妖異と呼ばれるものたちと過ごす時間のほうが圧倒的に長かったアイラの感覚は、自然、そちらに近いものになった。だから、姿かたちの美醜にこだわらない。こだわる気持ちが理解できないと言った方が正しい。
さらに、極端に人との関わりが少ないアイラには、例えば、リエラのような美貌に恵まれていたとして、だから何か変わるかと言えば思いつくことが何もない。年頃の娘であれば誰にでもありそうな、もう少し鼻が高かったらとか、目が大きかったらとか、そうした小さな悩みや願いは思いつく以前の問題だった。つまり、リエラの美貌を羨む理由がないのだ。
アイラにとって、容姿の良さとはその程度のものだった。
とはいえ、美しい花冠の乙女が歓迎されることくらいはわかる。もし来年の大武術大会までにリエラが結婚しなければ再び声が掛かるかもしれなかった。
だから、とアイラは考える。
今度開かれる大会がどんなものか知らないが、リエラが花冠の乙女を務めることになんら問題はない。適役だ。
対してアイラは自分がそういうことに向いていないことをよく知っていたし、魅力も感じない。少しは憧れるけれど、性格的に人見知りで人前に出るのが恥ずかしいとか、本当はやってみたいけれど、容姿に自信がないから遠慮したいとか、羨ましいと思うけれど、縁のないものと割り切っているとか、そういうことではないのだ。アイラの場合、徹頭徹尾、興味がないの一言に尽きる。
「僕は、アイラが花冠の乙女の格好したところ、見たいなあ」
カタムが無邪気に言うと、アイラは少しだけ口元をほころばせた。
「見ることはできるわよ。本番の前に衣装合わせがあるとリエラが言っていたもの。そのときはわたくしが身につけるのでしょうし」
小ざっぱりとした部屋着に着替えたアイラは、白い付け襟を飾りピンで留めながら答えた。そこへ、低く響くセリムの声が言った。
「だが、シュタル王は見られまい。落胆するのではないかな?」
「お父さまが?」
アイラは驚いて寝間着を畳む手を止めた。
「役を譲って欲しいというリエラ王女の願いを退けるということは、そういうことだろう」
「そうだねぇ。リエラ王女はアイラのための大会と言っていたけれど、それは、シュタル王がアイラのために主催する武術大会ということじゃないのかな。だから、花冠の乙女はアイラなんだよ」
やわらかなメルの声におっとりとした調子で言われ、アイラは急にそわそわと落ち着かない様子で視線をさ迷わせた。
「そんな……、お父さまが、わたくしに……」
言いかけて、しかし途中で言葉が途切れた。アイラは無意識にぎゅっと両手を握り締め、何かを振り払うように軽く頭を振った。
「ありえないわ。わたくしを花冠の乙女にするためになんて、まして、その姿を見たいなんて、絶対に違う。お父さまがわたくしを花冠の乙女に指名して大会を主催したのは本当だとしても、理由は別にあるはずよ」
きっぱりとした口調だった。それから、打って変わった弱々しい声で自信なさげに呟いた。
「リエラとした約束は、お父さまを困らせてしまうかしら……?」
父に迷惑を掛けるわけにはいかない。しかし、約束を反故にしてリエラをがっかりさせたくもない。
アイラがリエラの頼みを断ることは滅多にないが、時にはそういうこともある。リエラの反応はその時の気分次第だ。しつこく食い下がる時もあれば、あっさり引き下がる時もある。大抵の場合、怒っていても意外と簡単に機嫌を直す。稀に、話さえ聞かずに席を立つこともあるが、それが深刻な諍いに発展したことはない。
感情に素直に振舞うリエラは見ていて楽しい。とは言っても、やはり笑っているほうがいい。沈んだ顔をしていれば心配になるし、泣いていれば誰のせいかと腹も立つ。怒って眦を吊り上げていても、悔しそうに唇を噛んでいても可愛いことに変わりはないが、なにもそういう顔をさせたいわけではない。
けれど、一度引き受けておきながら断れば、機嫌を損ねることになるかもしれない。別に自分はどう思われようと構わないが、ぬか喜びさせてしまうリエラにはすまないと思う。
そもそも、アイラのための大会と知っていて譲れと言う方も言う方なのだが、アイラにその点でリエラを責める気は毛頭ない。と言うよりも、思いつきもしないというのが正しい。
「アイラ」
「なあに?」
「いつものお使いが来たよー」
カタムの言う『いつものお使い』とは、父からの呼び出しを意味する。
今日はなにやら慌しいことと、息をついたが、ふと思いついて呟いた。
「もしかして、リエラと同じお話かしら」
「違ったとしてもちょうどよかったじゃねえか。せっかく会えるんだから王さんに訊いてみろよ」
「え……?」
ゼラは気軽に思いつきを口にしただけなのだろうが、アイラは返事に詰まった。そして、それこそが自分と父との関係を端的に表しているように思え、心が沈んだ。
「訊きにくいのかね?」
セリムに穏やかに問われ、アイラは困ったように息をついた。
「今、気づいたけれど、お父さまにわたくしから話しかけたことなんて、ないかもしれない」
シュタル王が言葉を掛け、アイラが答える。父娘の会話はいつもそうして始まる。会話の流れで何かを尋ねることはある。言葉の連想で話題が飛ぶこともある。けれど、アイラが自分から話を切り出すことは決してなかった。基本的に言われたことに対して言葉を返すだけなのだ。
「別に、意識してそうしてたわけじゃないんでしょ。あんまり考えないでさ。普通に訊けば?」
「その通りなのだけれど……」
カタムの言うように気楽にできるとは思えなかった。父を前にするとどうしても構えてしまう。してはならないことばかりが浮かんで、緊張する。
「そう深刻になるなよ。ついでに済めば早いと思ったから言っただけで、リエラに教えてもらったって構わないんだぜ」
「こちらで調べてもいいんだよ。アイラが望むならそのくらいのことはできるからね」
よほど情けない顔をしていたのだろう。ゼラだけでなくメルにまで重ねて言われてしまった。
メルが、自ら何かをしようと申し出ることはあまりない。当たりはやわらかいが、アイラに対しては教師のようなところがあり、時には厳しいことも言う。
今は、父が絡むとどうしても臆病になりがちな自分を気遣ってくれているのだとわかったが、アイラは首を横に振った。彼らに頼るのは簡単だ。けれど、自分でできることまでしてもらうのは違うと思う。父との距離が遠く隔たったままでいいと諦めることなどできないのだから、そのくらいの努力はするべきだろう。
「――いいえ。大丈夫。わたくしが、お父さまにうかがいます」
アイラは止まっていた手を動かして寝間着を片付けてしまうと、玄関へ向かった。いつものように扉に二つ折りの小さなカードが挟まっていた。表にはシュタル王の紋章が押されている。
カードを手に取ると同時に、ふっとカタムの横顔が視界に入ってきた。
「何時だってー?」
歌うように言いながら、アイラの脇からひょいと顔を出したカタムの背丈は、アイラより拳二つ分ほど低い。カードを覗き込んで身を乗り出した拍子に、赤茶色の髪がふっくらした頬に落ちかかった。
アイラはそっとカードを開く。しかし、銀色の縁取りの中央に書かれた文字を読み取る寸前に、すっと背後から手が伸びて、アイラの手からカードを取り上げてしまった。それを追って振り返ると、摘んだカードを翳すようにして眺めるゼラの姿があった。跳ね放題の黒髪を押さえるように無造作に巻いた布の青が目に鮮やかだ。
「相変わらず素っ気無ぇな。一言くらいなんか書けばいいのによ」
アイラとは頭一つ分ほどの身長差があるので上を向かれると顔はよく見えない。しかし、呆れたような口調から表情は想像できた。
「用は足りているわ。場所はいつも同じですもの」
ゼラの若草色の双眸が不満そうにアイラを見下ろした。
「これで、充分よ」
どこか自分に言い聞かせるように言ったアイラの横で、背伸びしたカタムがゼラの手からカードを抜き取った。書かれた時刻を見て、大きな深緑の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「中途半端に時間が空いちゃったね。どうする?」
「そうねえ」
カタムの手の中のカードから、ふっとアイラの視線が横に流れる。
アイラはこの手の呼び出しの前にはできるだけ睡眠をとることにしてる。出かけてから眠くなると非常に辛いからだ。しかし、眠りなおすには時間が足りない。かといって、仕度を始めるには少々早い。
そもそも、リエラが来なければこの時刻のアイラはまだ眠りの中だ。父からの呼び出しを無視するわけにはいかないから、どちらにしろ今日は早く起こされる運命だったらしい。アイラは少し考えて、言った。
「奥の部屋にいるわ」
「うん。わかった。いってらっしゃ〜い」
アイラが軽くうなずくと、二人の姿は空気に溶けるようにして消えた。
姿が見えなくても、彼らはいつもアイラのそばにおり、気配はいつも傍らにある。けれど、少しだけ距離を置くことはある。
アイラが奥の部屋と呼ぶ一室にいるときがそうだ。用事があれば別だが、基本的に話しかけてくることも姿を現すこともない。それを決めたのはアイラではなく、彼らのほうだ。一人になる時間も必要だ、と彼らは言う。
衣裳部屋では姿を現さないというのも彼らの決まりごとの一つだ。アイラは構わないのだが、あんまり無頓着になられても困るし、とよくわからない説明をされた。
他にも幾つか決まりごとがあるが、アイラはあまり必要性を感じていなかった。アイラが奥の部屋に行くのも一人になりたいからではなく、彼女にとって特別に大切なものがあるからだ。
それは、一枚の肖像画だった。
そこには十代後半の少女の上半身がほぼ実物大の大きさで描かれている。渦巻く黄金の髪に薔薇色の頬の美しい少女だ。瞳は胸元を飾る緑柱石と同じきらめく緑。白いドレスに身を包み、毅然とした表情で遥か彼方を見つめている。
肖像画の少女はリエラに似ていた。正確には、数年後のリエラに見える。しかし、印象が違う。光を放つような美しさは同じだが、リエラが華麗であるなら、肖像画の少女は鮮烈だった。それでも、顔貌に限って言えばそっくりと言っていい。
誰が、この肖像画をこの部屋に飾ったのか、アイラは知らない。けれど、父王なのではないかと思う。描かれている少女が誰なのか、アイラは知らない。けれど、母なのではないかと思う。
確かめたことはない。ただ、そう思えるのだ。
だから、リエラと最初に顔を会わせたときは、本当に驚いた。
それがいつだったか正確には憶えていないが、記憶にある姿から考えると、たぶん十年ほど前だと思う。初めてリエラを見た瞬間、似ていると思った。肖像画の女の人――その頃のアイラには立派な大人の女性に見えた――と比べると、父王に連れられてきた女の子はアイラと同じくらいの年頃だったからずいぶん小さかったのだが、本当に似て見えたのだ。
その女の子を妹だと教えられたときは、ただただ、顔を見つめることしかできなかった。
驚きが過ぎて固まってしまったアイラに、リエラは舌足らずの口調で言った。
「あたしくは、リエラ。あなたのおなまえは?」
リエラは屈託なく笑った。
大きく脈打った心臓の音を、アイラは今でも忘れられない。
父が、見たこともない優しい顔をして、リエラを見つめていた。光が弾けるような愛らしい笑顔に向ける、その、温かい眼差し。愛しげな仕草で、蜜色の髪に触れる、大きな手。それは夢のような光景で、すべてが眩しく、輝いて見えた。
祝福の光に包まれた、幸せな、幸せな――
「わたくしの、いもうと」
小さな呟きはリエラには届かなかったが、アイラの耳に、いもうと、という響きはこの上なく優しく特別に聞こえた。
感動に胸が熱くなるとは、ああいうことを言うのだろうと後で思った。
あの時、いもうと、という存在が、アイラにはとても大切なものに思えたのだ。
それからずっと、リエラはアイラの特別だ。そして、これからもそれは変わらないだろうと、アイラは思う。
そうして遠くを見つめるアイラの眼差しは、不思議なことに、肖像画の少女のそれとぴたりと重なっていたのである。




