七、大切な痛み 1
リエラにはアイラが何をしたのかわからなかったが、とても辛そうに見えた。その横顔には凍えるような悲壮感が漂っている。アイラのそんな姿を見るのは初めてだった。あまりに痛々しくて、駆け寄って、抱きしめたい。そう思ったのに、アイラの透明感のある青紫の瞳に捉えられた瞬間、そんな感傷はどこかに消えてしまっていた。
「リエラ」
透き通る美しい声は変わらない。けれど、宿る力でそれはまったく別の声に聞こえた。
動けないリエラに、細い手が伸びて、招き寄せるような仕草をした。
リエラの意思ではなく、体が動く。その歩みに合わせて、風が避ける。何か目に見えぬものに手を引かれるようにして、アイラの元へ導かれる。
リエラは輝きに包まれてさえ見える姿に圧倒された。頬の傷のことなどすっかり忘れていたが、アイラにそっと血を拭われて、やっと思い出した。
「大丈夫よ。もう血は止まってる。絶対に、痕は残らない。きれいに治るわ」
疑いようもない決まった未来のことのようにアイラが言うと、ひやりとした何かが頬を撫でた。気遣わしげに見つめてくるアイラにぎこちなく頷くと、その顔に優しい微笑みが広がった。
リエラの大好きな笑顔だった。滅多に見せないけれど、リエラが本当に欲しいときにはいつもそうやって笑ってくれる。
思えばずっとそうだった。リエラが心から助けを求めるとき、いつもアイラが来てくれる。悲しくて消えてしまいそうなときも、怖くて震えているときも、いつだって泣いているリエラを探し当て、ぎゅっと抱きしめてくれた。
今も、アイラは大切な宝物に触れるようにリエラを抱き寄せた。
「良かった」
抱きしめる腕は、覚えているものと同じ。
「本当に、良かったわ……」
安堵に震える声に、リエラは緊張が解けてゆくのを感じた。
アイラはアイラだ。変わらない。
「――――――ありがとう……アイラ」
アイラの手がゆっくりと髪を撫でる。リエラはやっと安心して、甘えるようにアイラの肩に頬を寄せた。
いつの間にか、辺りは静寂に包まれていた。何もかもが幻だったかのように。
太陽は完全に海の向こうへ消え、夕闇が辺りを包み始めている。
「帰りましょう。リエラ。みんなとても、心配しているわ」
「あの者は……」
リエラは言いにくそうに言葉を濁した。視線の先にはトゥムファの祭司がいる。
アイラはそこで初めて思い出したかのように蹲っている男を振り返った。
「トゥムファの祭司殿。もう一度言います。指輪は戻っても、精霊の加護は戻らない」
ゆっくりと顔を上げた男は、まるで死の宣告を受けた者のようだった。その上、額から血が滴っていた。雹が当たった衝撃で皮膚が切れたのだろう。
「精霊は言っていました。火の山は休みに入った。島に戻るかどうかはあなたたちが決めること。島はもう特別な楽園ではないから、元通りに暮らせるようになるには時間がかかるだろう。けれど、水や風や土や光と上手く付き合う方法は必ずあると。精霊が仲立ちをしていた時ほど優しくはないかもしれない。でも、三百年その土地に暮らし築いた絆は簡単には壊れないものだと。最初の娘が放浪の民であったあなたたちの祖先を導いて、あの地に立ちトゥムファと名付けた時から、あの島はあなたたちの大地になったということを忘れないで欲しいと、言っていました」
「………精霊は、トゥムファの祭司である、私のもの、なのに」
「彼らは誰のものでもありません」
剣呑な光を宿した瞳に見据えられ、男は顔を強張らせた。
「最初の娘が精霊と交わした契約は解かれました。もう、この世界にトゥムファの守護精霊は存在しません。精霊はわたくしたちの元を去りました。彼らは自由な精霊となったのです」
反論こそしなかったが口惜しげに地面を睨む男に、アイラは静かに歩み寄った。気配を察して膝を着いたまま反射的に後ずさろうとする男の前でアイラは身を屈め、取り出した手巾を赤く濡れた傷口に押し当てた。
男は顔をしかめたが、アイラの手を振り払いはしなかった。
男を見つめるアイラの青紫の瞳の中に光がさざ波のように広がった。
「少し押さえていれば、止まります。腫れも引くでしょう」
不思議な余韻を残す声に言われたとおり、男がのろのろと手を上げて手巾の上から傷を押さえると、アイラは銀鎖から指輪を外した。
「これを、あなたに」
男は警戒しつつも怪訝そうにアイラを見上げた。
「差し上げると言ったはずです」
男はアイラの顔と手の上に載った指輪を落ち着きなく何度も見比べた。
「トゥムファに生きた人々の想いを刻んできた指輪です。精霊はいなくとも連綿と受け継がれてきた想いは失われておりません。この指輪の故郷はトゥムファなのです。わたくしよりもあなたが持つに相応しいものです。そして時がきたら、あなたから次代へ譲られるがよろしいでしょう」
決別の言葉だった。
始まりは親から子へと、そして愛しい者へ贈られてきた指輪を贈り主に返すことで、アイラは自分の立場を明確に示した。あなたを父とは思わない。アイラはそう言ったのだ。同時に、リエラを拉致した犯人として拘束するつもりがないことを伝えるものでもあった。
「私を見逃すのか?」
アイラはじっと自分と同じ色の瞳を見つめた。
精霊を解放しようとしたとき、必死に止めた顔が脳裏に浮かぶ。あのときの叫びは本心なのだろう。彼は彼なりに、トゥムファという名の島を想っている。
「あなたは故郷を取り戻したかったのでしょう? 精霊の力を望む島民の期待に応え、祭司の務めを果たしたかった。けれどあなたの元に精霊はいない。できないことを望まれるのは辛いことです。わたくしの生きた年月だけ、あなたはそれに耐えてこられた」
夕闇があたりを覆いつつあったが、アイラの視界は解放された力のせいか明瞭だった。男が動揺し顔を歪めるのがはっきりと見て取れた。
「故郷へ帰りたいと願うのは当然のことです。そのために、あなたはトゥムファの祭司として行動された。あなたのやり方に協力はできませんので邪魔をしましたが、捕らえて罰を与えたいとは思いません」
「そこまでわかっていながら、何故だ……、何故」
「わたくしがトゥムファへ行けば、わたくしが頼めば、精霊たちはまたトゥムファを守護してくれたかもしれません。でも、わたくしは嫌だった。彼らにとっては契約のうちのことだったのでしょう。でも、いつもそばにいてずっと守ってくれたのです。親であり兄弟であり、師でもあり友でもありました。かけがえのない存在です。その彼らに枷をかけ従わせるようなことはできません。わたくしはトゥムファの祭司にはなれません」
アイラの声は冷静だった。
「あなたはトゥムファが大切で、わたくしは精霊たちが大切だった。優先すべきものが違っただけで、わたくしたちは似ているのかもしれませんね。あなたは、たとえ恩ある国の王女を拉致しても精霊を取り戻そうとした。わたくしは、大勢の島民から楽園を奪うことになっても精霊を解放したかった……」
「そして、私は失敗し、君は我を通したわけだ。思い通りに事を運んで、気が晴れたか?」
祭司はアイラの反応をうかがうように一呼吸おいて、ゆっくりと続けた。
「違うな。気持ちの良いものではないだろう?」
熱心にアイラを見つめる瞳には、打算と屈辱と懇願の色が複雑に混じりあっていた。
「ならば、犠牲となった私たちのために力を貸してくれてもよいのではないか? 精霊の力を借りずとも、君が来てくれれば。最初の娘と同じ力を持つ君が」
「祭司殿。わたくしはただ、精霊の姿と声を見聞きできるだけです。最初の娘とは違います」
「いいや。君には力がある。契約を解いた後も君を取り巻く輝きは消えなかった。最初の娘が力を振るうとき、やはり誰の目にも明らかな光を纏ったと伝え聞く。私にも見えたあの輝きはそういうことなのだろう」
「確かにわたくしには力があります。けれど、わかるのです。わたくしにあるのは冷たく凍える力だけ。トゥムファの役には立てません」
「しかし……」
「いい加減になさい!」
一喝、鋭く祭司の言葉を遮ったのは、リエラだった。