六、契約の印 2
――――バキィッ!
小屋の中に木材の砕ける大きな音が響いた。
同時に、扉が真っ二つに割れてリエラと男のいる部屋の中へすっ飛んで来た。そのままの勢いで向かいの壁にぶつかってバラバラに砕け散る。
そう頑丈な扉ではない。だが、常識で考えてありえない事態だった。思わず体を硬直させた男とリエラだったが、我に返ったのはリエラの方が早かった。緩んだ手を振り払い、小屋の外に走り出る。男は一瞬遅れて後を追い、入り口を出たところでリエラを捕まえた。
見張りはどうしたのかと見回すと、すぐ横で緑の蔓のようなものにぐるぐる巻きにされて引き倒されていた。
「アイラ!」
リエラが叫ぶ。
黄昏時の薄闇の中で、離れた場所に立つその姿を、何故かはっきりと捉えることができた。
男は目にしたものが信じられずに、現れた少女を凝視した。
自分と同じ、印の色を持つ、少女。
少女は顔色一つ変えなかった。氷のような無表情のまま、名乗った。
「わたくしが、アイラです」
「馬鹿な。島の外で生まれた子が印を持つなど……」
「島の外も中も、関係ないようですわね。さあ、リエラを放してください。用があるのはわたくしでしょう? トゥムファの祭司殿」
思わず漏らした呟きに対する答えで、男はアイラがほぼ正確に状況を理解していることを知った。そして、その不自然極まりない突然の登場に漠然とした不快さを覚えた。
「本当に人違いだったとはな。おまえはこちらの王女と違い色々と知っているようだが、……一人か?」
「精霊たちがこの場所を突き止め、わたくしを運んでくれました」
男は凄まじい目でアイラを睨んだ。
「おまえの願いに応えた、だと?」
アイラは答えなかったが、沈黙はすなわち肯定だった。
アイラの願いを精霊が叶えたという事実は、男に強い衝撃を与えた。
精霊は祭司の願いを叶えるものだ。トゥムファのために使われるべき力だ。それを、資格のない者が堂々とその恩恵を受けている。怒りで目が眩みそうだった。そのせいで必要とされたときにその力を行使できなかったのだ。島は牙を剥き自分たちは故郷を出なければならなかった。
「扉を壊したのも見張りを片付けたのも、精霊の力というわけか」
「扉は壊しましたが見張りの方は眠っているだけです。リエラをこちらへ返してください」
「そうはいかない」
男はリエラの腕を引き自分の前に立たせた。
「おまえが本物のアイラなら、指輪を持っているはずだ。指輪を私に寄越せ!」
男の乱暴な態度に、アイラはかすかに眉を寄せた。
「精霊からの言葉を伝えます。あなたのしていることには、なんの意味もありません。たとえ指輪があなたの手に渡っても、精霊の加護は戻らない」
「嘘を言うな……!」
男は低く唸った。
「おまえに精霊の声が聞こえるはずがない。それができたのは、最初の娘だけだ」
「嘘ではありません。わたくしには彼らの姿が視え、声が聞こえる」
男がまた喚く前に、アイラは素早く言った。
「守護精霊は五人。光と風と大地の守りを与え、冬の厳しさで敵を退ける」
「な、なんだと……?」
「王宮にいたわたくしに、精霊たち以外の誰が教えてくれるというのです? リエラを放しなさい。もう、精霊はトゥムファに戻りません」
アイラが一歩、踏み出すと、男はリエラを強引に引き寄せ、叫んだ。
「近づくな! 祭司でもないおまえの願いを精霊がかなえるのは指輪があるからだ。指輪を私に! さもないと」
短剣がリエラの顔に突きつけられた。
「やめなさい。――――指輪はここです」
アイラは首に掛かる細い銀鎖を胸元から引き出して持ち上げた。その先には、指輪が揺れている。
よく見ようと身を乗り出した男の腕に力がこもり、リエラの頬に冷たく光る刃が押し付けられた。
アイラは声にならない悲鳴を上げた。
息が止まる。
柔らかな皮膚に赤色が滲んで、つーっと一筋、白い頬を伝った。
その赤が、体の中の何かを揺らすのをアイラは感じた。一瞬遅れて、胸を内側から突かれたような重い衝撃が走る。視界が一度大きくぶれ、すぐに戻った。
リエラの頬を濡らす赤い血が、はっきりと見える。
体の奥底で何かが目覚めようと身動ぎしている。伝わる振動は次第に大きくなる。大きくなって、閉じ込める殻を壊そうとする。音を立てて、ひびが、走る。
「指輪は、あなたに差し上げましょう」
唇が紡ぐ言葉の静けさとは裏腹に、内側で何かわからない力が暴れ、膨れ上がる。
「――――――けれど」
声が冷たさを帯びた。
「けれど、こんなやり方は気に入りません」
湧き上がる怒りが、その激しさで、眠っていた何かを呼び起こそうとしている。
周囲で五人分の制止の声が上がり、同時に押さえ込む力が掛かるのを感じた。けれど、既に殻の中で動き出したそれを、止めることはできない。
体の奥で目覚めたそれが、契約の核となるものであると教えられなくともアイラにはわかった。それこそが、守護契約の、見えない印。
無条件に精霊の守護を約束される唯一の証として、血の奥に潜み眠っていた力。
その封印が、砕け散る―――。
吹き上げる奔流が体中を駆け巡り、四肢に銀色の光の粒が弾ける。
青紫の瞳に身震いするほど妖しく艶やかな光がきらめき、男を射抜いた。
「ええ。まったく、気に入りませんわ!」
叫ぶと同時に、男の握る短剣が氷に覆われた。驚いて凍りついた短剣を取り落とした途端、ゴウッと凄まじい風が男に向かって吹き付ける。ただの風ではない。大きな雹交じりの、身も凍える冷たい寒風である。
男はたまらずリエラを放り出し、小屋の中へ逃れようとしたが、壊れた扉の替わりにいつの間にか分厚い氷が張っていて入れない。
リエラは呆然と地面にへたり込んだまま、動けなかった。
不思議なことに、風も雹もリエラを避けて通る。しかし、冷気までは遮られなかった。吐く息が白い。こんな寒さを初めて体験するリエラは、自分の体をぎゅっと抱きしめた。
指先が冷たくて、体が震えた。しかし、それは寒さのためだけではなかった。
リエラの視線の先には、十五年間、姉妹だと信じていた少女がいる。その信じられない変わりように、瞬きも忘れてリエラは見入った。
アイラはその場のすべてを従えているかのようだった。影の薄い、目立たない少女はそこにはいなかった。
知らず、目を奪われる。
圧倒的な存在感。
この場の中心にあり、すべてを支配しているのは、間違いなく、怒りに瞳をきらめかせ、銀の髪を風になびかせて立つ、華奢な少女だった。
「トゥムファの祭司殿。よくよく心に刻んでおかれるといい。最初の娘が始めたトゥムファの守護精霊の物語は、今日この時をもって完結する。わたくしはここに、守護精霊と在りし歴史に終止符を打ちます」
男の顔が蒼白に変じ、引き攣れた悲鳴が上がった。
今、アイラには精霊と自分を繋ぐ契約の力がはっきりと視え、ついさっき決意したことが言葉にしさえすれば適うことがわかった。そして、そうすることを微塵も躊躇わなかった。
男もまた、我が身を庇うことも忘れて声を張り上げた。
「我々から故郷を――トゥムファを奪う気か! 馬鹿な真似はやめろっ」
飛来する雹に打たれても怯む様子はない。果敢に風雪に立ち向かい、前へ足を踏み出そうとしている。
「トゥムファは精霊を失うわけにはいかないのだ! 私たちから島を奪わないでくれ、頼む……っ」
男は必死に叫んでいたが、アイラは構わなかった。精霊たちの呼ぶ声もアイラを止めるには至らない。
「ここに、守護の契約を、解く……契約の鎖よ、消え去れ――!」
瞬間、伝わったのは、驚愕。
断ち切られた契約の力が空気に溶けて消えていく。
「わたくしは、あなたたちを縛り付けたくない。自由で、いて欲しいもの」
答えはなく、気がつくと、いつも身近に感じていた気配が消えていた。
後悔はない。けれど、今はただ、胸が痛かった。
ぽっかりと穴が開いたような喪失感と寂寥感は永遠に消えないように思われた。これからの日々を思うと、心細さと不安に押しつぶされそうになる。恐ろしくさえあった。けれど、アイラは半分無意識にそれらすべてを心から締め出して、顔を上げた。
別れの痛みと一人になってしまった未来に怯えるよりも集中すべき問題が眼前にあったからだ。そこにリエラがいたから、守るべき存在があったから、アイラはまだ膝をつかずにいられたのである。




