第5話 腹を空かせた盗賊
騎士たちが剣を抜く音は、思っていたより軽かった。
けれど、その音を聞いた途端、街道を塞いでいた村人たちの顔が変わった。
逃げようとする者はいない。
斧や鍬を握る手に、ますます力が入る。
逃げれば、家で待っている者が飢えるからだろう。
「馬車から離れてください、殿下」
護衛騎士が俺の前へ出る。
「武器を捨てろ! 今なら命までは取らん!」
「先に食い物を置いていけ!」
村人の一人が怒鳴り返した。
四十歳前後の男だ。伸び放題の髭に、落ちくぼんだ目。右手に斧を持っているが、木を切るための道具であって、人間と戦うための武器ではない。
「馬車に食い物があるのは分かってる! 大人しく置いていけば、こっちもあんたらを傷つけるつもりはねえ!」
「盗賊の言葉を信用しろというのか!」
「盗賊じゃねえ!」
「街道を武器で塞ぎ、荷物を要求している。それを盗賊と言うんだ!」
「だったら、税だと言えば許されるのかよ!」
男が吐き捨てた。
「領主の兵隊は、剣を持って村へ来たぞ。倉を開けろ、税を払えってな。俺たちが食う分まで持っていった。あれは盗みじゃなくて、俺たちがやると盗みなのか?」
護衛騎士が言葉に詰まる。
「武器を下げろ」
俺が命じた。
「殿下、危険です」
「分かっている。だが、先に剣を抜いたのはこちらだ」
「奴らは街道を塞いでおります!」
「だから、互いに下げる」
村人の一人が、俺へ石を投げた。
狙いは外れ、馬車の側面に当たる。
乾いた音に馬が驚き、前脚を上げた。
「貴様!」
若い騎士が飛び出す。
斧を持った男も、反射的に身構えた。
次の瞬間、騎士が振り上げた腕を、ガルドが横からつかんだ。
「放してください!」
「ここで一人斬れば、残りも襲ってくるぞ」
「ならば全員斬ればよい!」
「簡単に言うな。二十人斬る間に、こちらも何人か死ぬ」
「騎士が農民に負けると?」
「腹に鎌を突っ込まれれば、騎士も死ぬ。鎧を着ているから畑の鍬が遠慮してくれるとでも思っているのか」
ガルドは腕を離した。
若い騎士は顔を赤くしていたが、剣を下ろした。
「ハンネスおじさん」
俺たちの後ろに隠れていたニナが、斧を持った男へ声をかけた。
ハンネスと呼ばれた男が、目を見開く。
「ニナか?」
「うん」
「お前、王都の連中に捕まったのか」
「財布を盗んだら転んだ」
「何やってんだ、お前は……」
「書類箱を足元に滑らせるなんて卑怯だと思わない?」
「財布を盗んだ人間に言われる筋合いはありません」
リゼットが即座に言い返した。
この状況でも、そこは譲らないらしい。
「知り合いか?」
俺が尋ねると、ニナはうなずいた。
「赤岩村のハンネス。前に荷運びを頼まれたことがある。野菜を町まで運んだ」
「それは去年の話だ」
ハンネスが自嘲するように笑った。
「今年は売る野菜なんかねえよ。秋の収穫は半分しかなかった。残った分も徴税官が持っていった」
「種籾は?」
「それもだ」
「種まで?」
「来年の春に何を蒔くんだって聞いたら、徴税官様は何て言ったと思う?」
ハンネスは斧を握ったまま、俺を見た。
「『春まで生きていたら考えろ』だとよ」
村人の中から、低い笑いが漏れた。
面白くて笑ったのではない。
怒鳴ることにも疲れた人間の笑いだった。
「グラウゼンの中央倉庫には、食糧があるはずだ」
俺が言うと、空気が変わった。
「はず?」
ハンネスが聞き返す。
「帳簿では、三年分の備蓄があることになっている」
「なら、どうして誰もくれねえんだ!」
別の男が怒鳴った。
まだ二十歳にもなっていないだろう。痩せた頬に、殴られた痕が残っている。
「俺たちは倉庫まで行った! 妹を背負って、一日歩いたんだ! 門番に、農民へ渡す小麦はないって追い返された。帳簿にあるなら、その帳簿を煮て食わせてくれよ!」
「俺はまだ倉庫を見ていない」
「じゃあ、何も知らねえじゃねえか!」
「ああ。何も知らない」
認めると、男は勢いをそがれたように口を閉じた。
ここで、任せろと胸を叩くことは簡単だ。
だが、俺はまだ北部の土を踏んだばかりだ。帳簿にある小麦が、本当に存在するのかさえ分からない。
「あなたが、王都から来た王子?」
村人たちの後ろから、女が出てきた。
腕に幼い子供を抱いている。
子供は眠っているように見えたが、泣く力が残っていないのかもしれない。
「そうだ」
「何をしに来たの」
「北部の食糧を管理するためだ」
「食糧なんてないのに?」
「ないなら、なぜないのか調べる」
「調べたら、今日の夕飯が出てくる?」
「出てこない」
女は俺を睨んだ。
「だったら、今は馬車の食べ物をちょうだい」
答えられなかった。
俺たちの馬車には、北部へ到着するまでの食糧が積まれている。
「リゼット。残りは?」
「日持ちするパンが四十六個。干し肉が十二本。豆と押し麦が合わせて二袋。護衛と御者を含め、六日分です」
「北部までは?」
ガルドが答える。
「何事もなければ二日。ですが、食糧を渡せば余裕はなくなります。迂回もできません」
「半分置いていく」
「お勧めしません」
「全員を斬って通るほうがいいと?」
「そうは言っておりません」
ガルドの声が低くなる。
「殿下。昔、遠征先で食糧を求める避難民に会ったことがあります。指揮官は情けをかけ、自軍の食糧を配った。立派な方でした。兵たちも、最初は褒めました」
「そのあと、どうなった」
「三日後に補給が遅れました。兵は空腹で動けなくなり、敵に追いつかれた。避難民に渡した食糧があれば、助かった兵もいたでしょう」
「その指揮官は?」
「戦死しました。最後まで自分の判断は正しかったと言っていました」
「ガルドは、間違っていたと思うのか」
「分かりません」
ガルドは吐き捨てるように答えた。
「腹を空かせた子供を見捨てるのが正しいとも思えん。だが、自分の食糧を全部渡して部下を死なせる人間を、優しい指揮官とも思えない。きれいな答えがあるなら、私が聞きたいくらいです」
面倒だ。
人間を助けるというのは、本当に面倒だ。
一人に渡せば、渡されなかった者が怒る。
今日を助ければ、明日の分がなくなる。
何もしなければ、今ここで誰かが死ぬ。
「半分ではなく、三分の一を置いていく」
「殿下」
「残りなら二日持つ。ここからグラウゼンまでは寄り道をしない。野営も一度だけだ」
「馬車が壊れれば終わりですぞ」
「だから壊さないように進む」
「荷車は、殿下の命令を聞いてくれません」
「人間よりは聞き分けがよさそうだ」
ガルドが、笑うべきか怒るべきか迷ったような顔をした。
「三分の一だけかよ!」
若い男が叫ぶ。
「馬車にはもっとあるんだろ! 全部置いてけ!」
「やめろ、エド」
ハンネスが男を止める。
「でも!」
「こいつらから全部奪ったら、俺たちが徴税官と同じになる」
「格好つけてる場合かよ! 村じゃ母さんが――」
「分かってる!」
ハンネスも怒鳴った。
「分かってるから、俺だって斧なんか持って、こんなところに立ってるんだ!」
エドと呼ばれた若者が黙る。
ハンネスは荒い呼吸を繰り返し、それから斧を地面へ置いた。
「三分の一、置いていけ」
「ああ」
「代わりに、俺も一緒に行く」
「人質のつもりか?」
「見張りだ。あんたが倉庫を見て、何もなかったふりをして王都へ逃げないようにな」
「俺が逃げたら?」
「王子でも殴る」
「それは困るな」
「嫌なら、今ここで全部置いてけ」
「いいだろう。乗れ」
ガルドが俺を睨む。
「勝手に決めないでいただきたい」
「反対か?」
「反対です。ですが、置いていく食糧を減らすよりはましでしょう」
リゼットとニナが馬車から食糧を下ろした。
パンを受け取った女は、自分では食べず、腕の中の子供へ小さくちぎって与える。
子供は目を閉じたまま、ゆっくり口を動かした。
「ハンネス」
「何だ」
「グラウゼンに着いたら、中央倉庫を確認する。帳簿どおり食糧があるなら、明後日の昼までに赤岩村へ小麦二十袋を送る」
「なかったら?」
俺は答えられなかった。
銀を渡すと言っても意味はない。
腹を空かせた人間は、硬貨を食べられない。
「なければ、その日のうちに俺が戻る」
「戻って何をする」
「それを説明する。何がなかったのか。なぜなかったのか。次にどうするのか。少なくとも、王都へ逃げて黙ることはしない」
「そんなの、腹の足しにならねえぞ」
「分かっている」
ハンネスは長い間、俺を見ていた。
「……明後日の昼だな」
「ああ」
「一刻でも遅れたら、王子だろうと嘘つき呼ばわりするからな」
「好きにしろ」
街道を塞いでいた村人たちが、少しずつ道を開ける。
俺たちは再び北へ向かった。
ハンネスは馬車の御者台に乗り、こちらを一度も振り返らなかった。
「殿下」
隣に座ったリゼットが、小さな声で言った。
「まだ確認していない食糧を、約束してよかったのですか」
「よくない」
「でしたら、なぜ」
「今、約束できるものが、それしかなかった」
「帳簿が間違っていたら?」
「そのときは、俺が嘘つきになる」
王都の報告書には、三年分の小麦があると書かれている。
俺は、その数字を一度も自分の目で確かめないまま、二十袋を村へ送ると約束した。
前世の俺なら、絶対にやらなかったことだ。
在庫確認前の納期回答など、事故の始まりでしかない。
それでも、あの場で何も言わずにはいられなかった。
日が沈む頃、丘の向こうにグラウゼンの城壁が見えた。
帳簿どおりなら、あの町の中央倉庫には三年分の小麦が眠っている。
帳簿どおりなら。




