2.午前十一時、普通の顔
待ち合わせは十一時だった。
来実が駅に着いたのは、十一時二十七分。
改札を抜ける瞬間、視界が少し揺れた。
昨夜飲んだ薬がまだ抜けきっていない。
足元がふわふわする。
身体が自分のものじゃないみたいだった。
スマホを見る。
『どこー?笑』
『先入ってる!』
『優等生のはずの来実は寝坊?遊びだけは遅刻するんだから(笑)』
来実は歩きながら、
『ごめん電車乗り過ごした笑』
と返した。
本当は、朝方まで眠れなくて、追加で薬を飲んだ。
少し静かになりたかっただけだった。
でも気づいたら、アラームを何度も止めた形跡だけ残っていて、ベッドから起き上がれなくなっていた。
カラオケ店のエレベーターで、鏡を見る。
顔色は悪くない。
コンシーラーで隠した目元も自然。
髪もちゃんと巻けている。
大丈夫そう。
来実は口角を上げた。
それから個室のドアを開ける。
「おっそー!」
「来実、絶対寝てたでしょ」
「春休み満喫してんな〜」
狭い部屋の熱気と笑い声が一気に流れ込んでくる。
来実は反射みたいに笑った。
「いやガチで乗り過ごしたんだって」
「嘘だ〜」
誰かがポテトを差し出す。
「あんがと」
来実は礼を言って一本つまんだ。
塩味が妙に濃く感じる。
隣で男子がマイクを握って、聞いたことのあるバンド曲を歌い始める。
来実はソファに座ったまま、ぼんやり画面のMVを眺めた。
人の声が少し遠い。
時々、意識が数秒だけ途切れる。
「来実、次入れてよ」
「あー、なに歌お」
「いつものやつ!」
スマホを操作しながら、来実は軽く笑う。
こういう時間は嫌いじゃなかった。
嫌いじゃない、はずだった。
曲が始まる。
来実はマイクを持つ。
ちゃんと音程を合わせて、ちゃんと笑って、ちゃんと周りに合いの手を入れる。
みんな普通に楽しそうだった。
自分も多分、普通に見えている。
サビの途中で、急に右腕が熱を持った。
長袖の下。
昨夜増えた傷が、じくじく疼く。
一瞬だけ呼吸が浅くなる。
でも顔には出さない。
「来実ほんと歌うまいよね」
「わかる」
「文化祭ソロやればよかったじゃん」
「やだよ目立つの」
笑いながら返す。
その瞬間、スマホが震えた。
『今日も生きててえらい』
知らないアカウントからだった。
来実は数秒、その文字を見つめる。
胸の奥が変なふうに軋んだ。
「来実?」
「あ、ごめん、なんでもない」
スマホを伏せる。
次の曲が始まる。
部屋は明るくて、うるさくて、平和だった。
なのに来実だけ、水の中にいるみたいだった。




