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茶々外伝・②⑤④話『常陸国城代』編・第8話 土浦城の奥、常陸仕様へ

 初めての裁きを終えた翌朝、私は土浦城の奥で、畳の上に広げられた布を前にしていた。


 昨日まで、私の頭の中は田境のことでいっぱいだった。


 下妻七郎兵衛。

 大堀左馬助。

 田島村。

 古文書の追記。

 境界誤認。

 材木提供。

 用水さらい。


 言葉にすれば乾いている。

 けれど、その一つ一つの下には、人の暮らしがあった。

 田を取られるかもしれぬ百姓の不安。

 面目を失いたくない国人衆の焦り。

 新しく入った黒坂家を、どこまで試せるかという常陸の古い力。


 裁きの座では、私はそれらをできるだけ冷静に見たつもりだった。


 けれど、夜になって筆を置いた時、肩の奥がひどく重かった。

 人を裁くとは、思ったより体に残る。


 だからこそ、翌朝に待っていたこの光景を見た時、私は一瞬だけ気が抜けた。


 畳の上に並んでいたのは、衣類、反物、寝具、薬草、香、箱、手拭い、湿気を避けるための紙、竹籠、そしてなぜかお江が拾ってきた虫除けの葉だった。


 政の後に、布と薬と虫除け。


 人が聞けば笑うかもしれない。


 だが、私はもう知っている。

 城は、評定だけでは回らない。


 人が眠る寝所。

 食事を作る台所。

 湯を沸かす湯殿。

 薬を乾かす棚。

 濡れた衣を干す場所。

 虫を避ける香。

 港から届いた荷を傷めずに置く蔵。


 そういうものが整って初めて、評定の座に人は座れる。


「御方様」


 桜子が、いつもの落ち着いた声で言った。


「大津より持ち込んだ布類の一部に、湿りが出ております」


「やはり」


 私は小さく息をついた。


 常陸は、大津とは湿気の質が違う。


 大津にも湖の湿りはあった。

 だが、常陸には海から来る塩気と、川辺の湿りと、土浦の低い土地の空気が混じる。

 ただ湿っているだけではない。布や紙へ、じわじわと入り込むような湿気だった。


「どれです」


「こちらにございます」


 桜子が畳の端へ置いた布を示す。


 見た目には分かりにくい。

 けれど手に取ると、わずかに重い。

 風を通さず箱に入れておけば、このまま嫌な匂いがつくだろう。


 桃子が横から、今にも泣きそうな顔で言った。


「御方様、殿の寝具にはまだ被害はございません」


「桃子」


「はい」


「私はまだ、真琴様の寝具とは申しておりません」


「ですが、一番大切ですので」


「大切ですが、一番だけでは困ります」


 桃子は真剣に首を振った。


「いいえ、殿がお疲れになってお戻りになった時、寝具が湿っていたら大事件でございます。常陸国の政にも関わります」


 お初が、後ろから冷静に言った。


「それは言いすぎじゃない?」


「言いすぎではありません。殿がよく眠れないと、御判断にも差し障ります」


「……微妙に筋が通ってるのが嫌ね」


 私は思わず笑いそうになった。


 桃子は、ときどき真琴様の寝具を国政の中心に据える。

 けれど、完全には間違っていないのが厄介だった。


「分かりました。寝具の湿気対策は重要です」


「はい!」


「ただし、寝具を増やして解決しようとしてはいけません」


 桃子の顔が一瞬だけ固まった。


「……御方様」


「何です」


「なぜ、今そのことを」


「あなたの後ろに、新しい布包みが見えています」


 桃子がゆっくり振り返った。

 確かに、部屋の隅には見覚えのない布包みが一つある。


 お初が呆れた。


「また増やしたの?」


「増やしたのではありません。常陸仕様として追加を検討していただけです」


「それを増やすって言うのよ」


「でも湿気が」


「まず乾かし方を考えなさいよ」


 お初の正論に、桃子は悔しそうに黙った。


 私は頷いた。


「お初の言う通りです。増やす前に、乾かす場所、畳む順、箱へ入れる時の紙、風を通す刻を決めます」


「はい……」


「桃子。寝具係として、あなたに任せます。ただし“増やさずに守る”こと」


 桃子の目が変わった。


「増やさずに、守る」


「ええ」


「……難しゅうございます」


「だから役目です」


 桃子はしばらく黙ったあと、深く頭を下げた。


「承りました。殿の寝具、増やさずに守ります」


 お初が小声で言う。


「なんか戦の誓いみたいになってる」


 お江が横から目を輝かせた。


「寝具守護隊?」


「お江」


「はい」


「名前をつけない」


「まだ何も!」


「つけようとしていました」


「ちょっとだけ」


 やはりである。


 次に問題になったのは、薬草だった。


 梅子が用意した棚には、大津から持ってきた薬と、常陸で手に入れた薬草が並んでいる。


 大津では見慣れなかった草もある。

 港の女たちや、村の者から聞いたものだという。


 梅子の顔は、ここ数日で少し生き生きしていた。


「梅子」


「はい」


「楽しそうですね」


「いえ、そのような」


「顔に出ています」


「……常陸には、湿地に生える薬草や、海風に強い草が多うございます。大津ではあまり見なかったものもあり、興味深く」


「ほどほどに」


 私が言うと、梅子は少しだけ目を伏せた。


「はい。採りすぎぬよう気をつけます」


「それもありますが、薬箱を増やしすぎぬように」


 梅子は黙った。


「梅子?」


「……常陸用に、一箱だけ」


「やはり」


「御方様、これは必要にございます。水あたり、湿気による肌の荒れ、虫刺され、海風による喉の乾き、港で働く者の手傷。大津の薬箱だけでは、常陸の暮らしに足りませぬ」


 その言い方は、思ったより強かった。


 私は梅子の顔を見る。


 この子は、ただ薬草が珍しくて増やしたいのではない。

 常陸という土地を見て、必要なものが違うと感じているのだ。


「常陸用の薬箱」


 私はゆっくり繰り返した。


「はい」


「中身の目録を作りなさい」


 梅子の顔が明るくなった。


「では」


「ただし、箱を増やす理由を一つずつ書くこと。何に使うのか。どれほど必要か。どの季節に多く使うか。補充はどこからするか」


「……かなり細かいですね」


「城代ですので」


 お初が小さく笑った。


「また便利に使ってる」


 梅子は少し考え、それから真剣に頷いた。


「承知しました。常陸用薬箱、目録つきで整えます」


「よろしい」


 お江が横から口を出す。


「虫刺されの薬、多めにしてね」


「あなたは外で走り回らなければ刺される数も減ります」


「走ってない時も刺されるもん!」


「お江様は、虫にも見つかりやすいのかもしれません」


 梅子が真顔で言った。


「えっ、そうなの?」


「動きが大きいので」


「虫にも目立つってこと!?」


 お初が吹き出した。


「お江、虫にも騒がしいって思われてるのよ」


「ひどい!」


 部屋に笑いが起きた。


 こういう笑いは必要だ。

 昨日の裁きの重さが、少しずつ奥の空気から抜けていく。


 土浦城の奥は、仮住まいである。


 新城が完成するまでの間、ここを政と暮らしの中心にする。

 仮とはいえ、人はここで眠り、食べ、働く。

 仮だからといって雑に扱えば、その雑さが人の気持ちに染みる。


 私は、桜子と共に城内を歩いた。


 まず、布の保管場所。


 大津では風がよく通る部屋を使っていたが、土浦城では同じようにはいかない。

 こちらの蔵は、壁が少し湿気を含みやすい。朝はよいが、夕方になると空気がこもる部屋もある。


「この部屋は、反物には向きません」


 私は言った。


 桜子が頷く。


「では、こちらは木箱類に」


「ええ。ただし港から来る箱は、一度外で潮気を払ってから入れます」


「承知しました」


「紙類は?」


「政道殿より、文書箱は表に近い乾いた部屋へ置きたいとのこと」


「そうしなさい。奥の文や礼状に関わるものは、私の部屋に近い小部屋へ。ただし火の近くは避けます」


「はい」


 次に湯殿を見た。


 土浦城の湯殿は、大津より風の抜け方が違う。

 湿りがこもりやすく、木の一部に黒ずみが出ていた。


 桃子がすぐに言う。


「ここは、殿には少し湿りが」


「真琴様だけでなく、皆が使います」


「はい。皆が使います。ですが殿も」


「分かっています」


 私は湯殿の戸を見た。


「湯を使ったあとは、戸を開けて風を通す。ただし夜風を入れすぎると冷えます。夕方のうちに一度、昼の湿りを抜くように」


「はい」


「床板の一部は、替えた方がよいですね」


 桜子が記録する。


「湯殿床板、一部取替。風通し確認」


「それから、梅子。湯に入れる薬草は、常陸のものをすぐ使わないように」


「なぜでしょう」


「真琴様やお江が、珍しがって試したがるからです」


 お江がむっとした。


「私、薬草湯くらいで騒がないよ」


「昨日、常陸の水で飲み比べしようとしました」


「あれは水!」


「同じです」


「違うと思う」


 お初が横から言った。


「違うけど、危ないところは同じ」


「お初姉様まで!」


 梅子は真面目に頷いた。


「では、まず少量で試し、肌に合うか確認してから使います」


「お願いします」


 お江はまだ何か言いたげだったが、湯殿に関しては梅子が味方につかないと悟ったのか、諦めた。


 台所も大事だった。


 常陸の食材は、大津と違う。

 魚は豊かだが、海の魚は扱いを間違えると匂いが強くなる。

 湿気で干物の保管も変えねばならない。

 塩の扱いも、港から来るものと内陸で使うものでは量が違う。


 台所に入ると、女中たちが緊張した顔で頭を下げた。


「そのままで」


 私は言った。


「今日は叱りに来たのではありません。常陸の台所を知りに来ました」


 一人の年嵩の女中が、おずおずと進み出た。


「御方様、大津より持ち込んだ味噌は、こちらの湿気では少し扱いが難しゅうございます」


「どう難しいのです」


「蓋を開ける刻が悪いと、表面に水気がつきます。置き場所も、今の棚では少し温かく」


「別の場所は」


「北側の小部屋がよろしいかと。ただ、そこは今、港から来た塩俵が」


「塩俵を動かせますか」


「重うございますが、動かせます」


「では、政道に人手を頼みます」


 女中は驚いた顔をした。


「よろしいのでございますか」


「味噌が傷めば、毎日の膳に関わります。人手を惜しむところではありません」


 その女中の顔が少し変わった。


 大津でもそうだった。

 台所の者たちは、細かな不便を飲み込みがちだ。

 けれど、その細かな不便が積もると、食事に出る。食事に出れば、皆の体に出る。


 私は釜の置き場、塩の保管、魚を捌く場所、野菜の泥を落とす水場を一つずつ見た。


 お江は、魚の話になった途端に元気になった。


「常陸の魚って、やっぱり美味しい?」


 台所の女が笑った。


「港から上がるものは新鮮でございますよ」


「食べたい!」


「お江」


「分かってる。今すぐじゃない」


「本当に分かっていますか」


「たぶん」


 お初が即座に言う。


「たぶんは駄目」


「じゃあ、分かってる!」


 台所の女たちがくすくす笑う。


 その笑いを聞いて、私は少し安心した。

 奥の空気が、ほんの少し常陸の人たちにも開き始めている。


 夕方、奥の座敷へ戻ると、桜子がまとめた記録はかなりの量になっていた。


 布の保管場所。

 寝具の湿気対策。

 常陸用薬箱。

 湯殿の風通し。

 台所の味噌と塩の移動。

 魚の扱い。

 港荷の潮気払い。

 虫除けの香。

 女中たちの寝所の位置。


 政の記録ではないように見える。

 けれど、これも政だ。


 私は畳に座り、皆を見回した。


「土浦城の奥は、今日より常陸仕様へ改めます」


 桃子が真剣に頷く。


「寝具は増やさずに守ります」


「ええ」


 梅子が続ける。


「薬箱は目録をつけ、必要と季節を明らかにします」


「はい」


 桜子は静かに言った。


「布と文、港荷、奥向きの荷の保管場所を分け直します」


「お願いします」


 お江が勢いよく手を挙げた。


「私は?」


「あなたは、虫除けの葉を勝手に部屋中へ置かないこと」


「えっ、役目じゃなくて禁止?」


「禁止も大事です」


「ひどい!」


 お初が笑った。


「あんた、虫除けの葉を枕元に山盛りにしようとしてたでしょ」


「だって虫に目立つって言われたから!」


「自分だけ森みたいな匂いになるわよ」


「それは嫌かも」


 私は思わず笑った。


「お江にも役目はあります」


「本当?」


「土浦城の奥で、皆が何に困っているかを聞きなさい。ただし、解決しようとせず、まず私か桜子へ伝えること」


「私が聞くの?」


「あなたには、人が話しかけやすいところがあります」


 お江は少し驚いた顔をした。


「私、役に立つ?」


「立ちます。余計なことをしなければ」


「最後の一言!」


「大事です」


 お初が小さく言う。


「でも、それはお江向きかもね」


「お初姉様まで!」


「褒めてるのよ」


「本当に?」


「少しは」


 お江は嬉しそうに笑った。


 私は、その顔を見て思う。


 お江の明るさ。

 お初の目。

 桜子の実務。

 梅子の薬。

 桃子の寝具への執念。


 大津で育ったそれぞれの力が、常陸で少しずつ形を変えている。


 夜、私は真琴様へ奥の整備について報告した。


 真琴様は、最初こそ軽く聞いていたが、途中から真剣な顔になった。


「湿気、そんなに違う?」


「はい。布と紙には注意が必要です。湯殿も風の通し方を変えねばなりません」


「港から来る荷も?」


「潮気を払わず入れると、後で傷みます。特に金具と布、紙箱は」


「なるほど……城の奥って、普通に難しいね」


「普通に、という言い方は引っかかりますが、難しいです」


 真琴様は苦笑した。


「いや、茶々が見てくれて助かる。俺、新城とか港とか国人衆のことで頭がいっぱいで、土浦城の奥の湿気までは見きれてなかった」


「御主人様がすべて見る必要はありません」


 私は言った。


「私が見ます」


 真琴様は、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、やわらかく笑う。


「頼もしい」


「褒めておられますか」


「かなり」


「では、明日から湯殿の床板を替える人手をお願いします」


「すぐ現実に戻すね」


「政ですので」


「分かった。手配する」


 その会話をしていると、私はふと気づいた。


 以前なら、真琴様に“頼まれる”ことを考えていた。

 今は違う。


 私が見たものを伝え、人手を求め、奥の不備を政の一部として動かしている。


 城代という言葉の重みが、少しずつ自分の中で形になっていた。


 その夜、私は一人で土浦城の奥を歩いた。


 昼に開け放った戸からは、少しだけ風が通っている。

 大津とは違う風。

 海と川と湿った土の匂いを含んだ、常陸の風。


 まだ慣れない。

 けれど、朝ほど嫌ではなかった。


 この城は、まだ仮の城だ。

 新城が完成するまでの住まいであり、政庁である。

 けれど、仮だからといって軽く扱わない。


 ここで人が眠る。

 ここで飯を食う。

 ここで真琴様が政の合間に息をつく。

 ここでお江が騒ぎ、お初が呆れ、桜子たちが働く。


 ならばここも、黒坂家の家だ。


 私は廊下の途中で立ち止まり、手のひらで柱に触れた。


 大津の柱とは違う。

 まだ私の手に馴染まない。


 けれど、これから馴染ませていく。


 常陸の水。

 常陸の港。

 常陸の田境。

 そして、常陸の奥。


 私は一つずつ見始めている。


 評定だけではなく。

 裁きだけではなく。

 寝具と薬草と湯殿と台所まで。


 国とは、そういうものすべてで出来ているのだ。


 私は静かに息を吸った。


 土浦城の奥は、まだ常陸仕様になり始めたばかり。


 だが、この場所が整えば、きっと黒坂家はもう少し深く、この土地へ根を下ろせる。

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