茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧③話・第十一話 真琴の何気ない一言
その日、真琴様は珍しく日が落ちきる前に安土屋敷へ戻ってこられた。
門の外で馬のいななきが聞こえた時、私は思わず筆を置いた。
ここ数日、戻りはたいてい夜も更けてからであったから、この時間に真琴様の気配がするだけで、屋敷の空気まで少しやわらぐように感じる。
「ただいまー……今日はちょっと早い」
広間へ入ってきた真琴様は、肩から力を抜きながらそう言った。
城での顔とは違う、家に戻った人の声である。
「お帰りなさいませ」
私は立ち上がり、一礼した。
「湯の支度はもう整っておりますが、その前にお茶でも召し上がりますか」
「うん、そうしたい。ちょっと喉乾いた」
私は桜子へ目配せをし、軽い茶と、まだ温かい焼き菓子を持ってこさせた。
お江はすでに真琴様の帰宅に気づいていたらしく、廊下の向こうから覗いていたが、私が視線を向けると「まだ入らないよ」という顔をして引っ込んだ。珍しいこともあるものだ。
茶を置き、私は真琴様の向かいへ座した。
「今日は城で何事かあったのですか」
「大きいのは特に。信長様の話が、妙に早くまとまったから」
真琴様は茶を一口飲み、ほっと息をついた。
「でもその代わり、明日からまた忙しくなるっぽい」
「それは、今日のうちに少しお休みになった方がよろしいですね」
「茶々がそう言うなら、今日はちゃんと休む」
その返しが、なんだか少し可笑しかった。
私はふっと口元をゆるめ、机の脇へ置いてあった文を手に取った。
「でしたら、その前に一つ。大津から文が来ております」
「母上様?」
「ええ。母上様と……それから、お初から少し」
真琴様の手が、茶碗の縁でぴたりと止まった。
私は、そのわずかな間を見逃さなかったが、顔には出さなかった。
「お初から?」
「はい。ほんの短い追伸ですが」
私は文を開き、必要なところだけ読み上げた。
大津の風は相変わらず冷たいこと。
お江がいない分、湯殿が静かすぎること。
そして最後に、お初の文字で、
「安土はどうか。真琴は相変わらず無茶をしていないか」
と書き添えてあった。
私がそこまで読むと、真琴様は少しだけ困ったような顔をした。
「お初らしいね」
「どういう意味です」
「素直じゃないけど、変なところで気を回すって意味」
私はその言葉を聞きながら、文を静かにたたんだ。
「気を回す、ですか」
「うん。ああ見えて、周りのことよく見てるから」
真琴様は、こともなげに続けた。
「自分が前へ出るより、後ろで変なこと起きてないか気にするタイプだよね。まあ、本人はたぶん認めないだろうけど」
私は相槌を打ちながらも、胸の内でわずかにざわりとしたものを感じた。
たしかに、その通りではある。
お初は素直ではない。すぐに口を尖らせ、まず否定から入る。だがその実、周りの様子をよく見ていて、肝心なところではきちんと動く。
だから今の言葉も、義妹の気質をそれなりに分かっておられる、ただそれだけなのだろう。
だが――。
「変に巻き込みたくないんだよね」
真琴様が、茶碗を手にしたまま、ふっとそう言った。
私は目を上げた。
「……巻き込む、とは」
「いや、何というか」
真琴様は少し考えるように眉を寄せた。
「黒坂家って、気づくと人が増えるし、やることも増えるし、変な噂も立つし、信長様まわりまで絡んでくるでしょ。だから、お初みたいな不器用なのまで、変にその流れへ巻き込みたくないなって、たまに思う」
その言い方は、ひどく自然だった。
自然だからこそ、私の胸には妙に深く落ちた。
ただの気遣いかもしれない。
義兄として、妹分のように見ている相手へ向けた、当然の配慮かもしれない。
だが、人は本当にどうでもよい相手のことを、そんなふうに言うものだろうか。
私は、すぐには返せなかった。
「茶々?」
真琴様が私の顔を覗き込むように呼ぶ。
私はようやく、表情を整えた。
「いえ……お優しいのですね」
「優しいっていうか」
真琴様は少しだけ肩をすくめた。
「お初、変なところでまっすぐだから。ああいうのって、一回流れに巻き込まれると、自分から上手く引けなさそうで」
その言い方に、また胸がざわつく。
お初のことを、そこまで見ているのか。
いや、見ているのだろう。
あの方は、身の回りの者の気質を、案外よく見抜く。そういう人だ。
そういう人だと分かっているのに、なぜかその言葉は、ただの義兄の気遣いとしてすんなり胸へ落ちてくれなかった。
私は視線を文へ落とした。
「お初は、大津で母上様のそばにおります。そうそう簡単に、安土の流れへは巻き込まれますまい」
「そうだといいけどね」
真琴様は、そこでようやく菓子へ手を伸ばした。
私はその様子を見ながら、胸の内のざわめきを、なんとか表へ出さぬよう抑えていた。
その時、襖の向こうでがた、と小さな音がした。
私は眉を寄せる。
「……お江」
すると、襖が少しだけ開き、半分だけ顔が覗いた。
「入ってもいい?」
「最初から聞いていたのでしょう」
「ちょっとだけ」
その“ちょっとだけ”が信用ならぬのは、もうよく分かっている。
だが入るなと言っても、今さら遅い。
「入りなさい」
お江は、いかにも今来た顔をして座へ入ってきた。
だがその目は妙にきらきらしている。嫌な予感しかしない。
「大津から手紙?」
「ええ」
「お初姉様からも?」
「はい」
「ふーん」
その“ふーん”に、私は早くも警戒した。
そして案の定、お江は次の一言を投げようとして、私に先に睨まれた。
「何です」
「えーっと……」
お江は一瞬だけ言いよどんだが、まだ口元が言いたそうにしている。
「申してみなさい」
「いや、だって」
「お江」
私は少しだけ声を低くした。
すると、お江は肩をすくめて、少し不満そうに言った。
「真琴、お初姉様のこと、やっぱり気にしてるんじゃ――」
「お江」
今度は真琴様の方が先に止めた。
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ妙に静まる。
お江は、しまったという顔をした。
だが、もう遅い。
私は視線を落としたまま、静かに息を整えた。
お江が言いかけたことは、たぶん言葉としては軽い。軽いのだが、私の胸の内にあるざわつきへ、あまりにも近いところを指した。
真琴様は、苦笑しながらお江へ言った。
「そういう雑なまとめ方しない」
「でも」
「でもじゃない」
お江は口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。
私もまた、それ以上深く聞くことはしなかった。
聞いて何になる。
仮に真琴様が「いや、ただの義妹としてだよ」と言われたところで、それは当然の返事だろう。
逆に、もし言葉の向こうにもう少し別の気配があったとして、それを今ここで明らかにして何になる。
私は茶を一口含んだ。
少しぬるくなっていた。
「大津へ返事を出します」
私は静かに言った。
「お初にも、安土は変わりないと伝えておきましょう」
「うん」
真琴様は、今度はそれ以上余計なことを言わなかった。
その沈黙が、かえって優しかった。
お江は気まずそうに私と真琴様の顔を見比べていたが、やがて小さく言った。
「……私、変なこと言った?」
「少し」
私が答えると、お江はしゅんとした。
私はそこで、ようやく少しだけ表情を和らげた。
「ですが、今日はそれ以上口を挟まぬのが賢明です」
「はーい……」
本当に分かっているのか怪しい返事ではあったが、少なくとも今は静かになった。
その夜の会話は、そこで大きくは続かなかった。
真琴様は湯へ向かわれ、私は文をたたみ、お江はどこか気まずそうに桜子のもとへ引っ込んでいった。
だが私は、部屋に一人残ってもなお、胸の内のざわめきがすぐには鎮まらぬのを感じていた。
真琴様の言葉は、きっと悪意も深い意味もない。
お初の気質を知り、その不器用さを思えばこその、ごく自然な気遣いだ。
そう頭では分かっている。
それでも、
「変に巻き込みたくない」
というあの言い方は、お初をただの義妹より、もう少し近いところに置いているように聞こえた。
気のせいかもしれない。
私の考えすぎかもしれない。
だが、こうして一度胸へ引っかかったものは、簡単には消えぬ。
私は大津からの文をもう一度開いた。
不器用で、素っ気なく、けれど確かに真琴様のことを気にしているお初の文字。
それを見つめながら、私はふと思う。
あの妹は、今、どのような心で大津にいるのだろう。
母上様のそばで、湖風の強い城に座りながら、安土のことを思っているのだろうか。
そして私は、いつの間にか、お初という存在をただの“遠くにいる妹”としては見られなくなり始めているのかもしれなかった。




