茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧②話・第十話 奥方たちの笑顔、妹の評判
安土の黒坂屋敷で女だけの茶会をひらいてから、屋敷に向けられる視線は少し変わったように思えた。
それまでの「黒坂家は賑やか」「女が多い」といった、どこか面白半分の見方に、
「だが、奥は整っている」
という一文が付け加わった気配があった。
だが、安土の奥方衆というものは、一度で全てを決めぬ。
見て、覚え、また別の日にもう一度見に来る。
家の印象とは、一度の茶で定まるものではなく、幾度かの顔合わせと、そのたびごとのわずかな違いで積み上がるものなのだろう。
その日の来客は、まさにそういう類のものであった。
細川家縁の奥方と、佐々家に通じる奥方、それにもう一人、先の茶会には顔を見せながらも、ほとんど物を言わなかった年長の婦人。
名目は春の挨拶の返し。
だが実際には、先の茶会のあと、黒坂屋敷がどういう空気を保っているかを見に来たのだと、私はすぐに悟った。
私は表の間を改めて整えさせた。
床の間の花は、先日のような晴れのしつらえほどは強くせず、少し落ち着いたものにする。
華やかさよりも、続いている暮らしの中の品を見せるためだ。
桜子に茶を、梅子に菓子を、桃子には控えの間の動きを任せ、私は座へついた。
問題は、お江である。
あの子は今や、安土屋敷の気配の一部になってしまっていた。
隠しておくことは出来る。だが、それでは“何か見せたくないものがある”と受け取られかねぬ。
かといって、好きに出せば、その場がどう転ぶか分からぬ。
私は考えた末、お江へ先に言い含めた。
「今日は、途中で一度だけ顔を出しなさい」
「一度だけ?」
「ええ。一度だけです。走らない。抱きつかない。勝手に菓子を摘まない。相手の話に割り込まない」
お江は指を折って数えながら聞いていたが、途中で少し不満そうな顔になった。
「それ、ほとんど何もできないじゃん」
「それで結構です」
「えー」
「お江」
私は少しだけ声を低くした。
「あなたは黒坂家の妹君として見られるのです。可愛らしさはあって良い。ですが、軽く見られてはなりません」
そう言うと、お江はしばらく私の顔を見ていたが、やがて意外なほど素直に頷いた。
「……わかった」
この子は、本当に分からぬ。
あれほど奔放なのに、時折こういうところだけは真っ直ぐに飲み込む。
そして、客が来た。
挨拶は穏やかに始まった。
春のこと。花見のこと。安土の風のこと。
誰もすぐには本題へ触れぬ。だがその静かなやり取りの中で、目だけはよく動いている。
座敷のしつらえ。
侍女の歩み。
私の受け答え。
そして、おそらくは――お江がここへいるかどうかも。
案の定、茶が一巡した頃、細川縁の奥方が柔らかく笑いながら言った。
「そういえば、先日ちらとお見かけした妹君は、こちらでお暮らしとか」
私は茶碗を静かに置いた。
「ええ。お江は今、こちらにおります」
「まあ。では、屋敷もさぞ賑やかでございましょう」
「賑やかではございます」
私は笑みを保ったまま答えた。
「ですが、賑やかさもまた家の色にございます」
相手の婦人は、なるほど、というように頷いた。
“騒がしい”と“色”の違いを、こちらがどう置くかを見ていたのだろう。
そこへちょうど桜子が入り、静かに私へ目配せした。
お江を入れてよいという合図である。
「お江」
私が呼ぶと、襖の向こうから、珍しくゆっくりとした足取りでお江が現れた。
きちんとした小袖。
髪もいつもより整えられ、少しだけ緊張した顔をしている。
私はその姿に、内心で少し驚いた。あれほど“出来ない”顔をしていたのに、やれば出来るではないか。
「お客様方にご挨拶を」
お江は、母上様に教わったであろう角度できちんと頭を下げた。
「お江にございます。姉上様には、いつもお世話になっております」
最後の一言は少しずれていたが、むしろお江らしくて悪くなかった。
奥方たちは口元をゆるめた。
「まあ、ようお出来に」
「利発そうな妹君」
「姉上様によく似ておられますな」
……それはどうであろう。
私は心の中で少しだけ首を傾げたが、表には出さぬ。
お江は、私が止めるより先に、こちらを見てから客へ向き直った。
「姉上様、いつも忙しそうだから、今日は邪魔しないって決めてたの」
私は一瞬、息を止めた。
余計なことを、と言いたいところだったが、次の瞬間、奥方たちの目がやわらいだのを見て、言葉を呑み込んだ。
「まあ」
佐々家縁の奥方が笑った。
「妹君は、茶々様のことをようご覧になっておられるのね」
「だって姉上様、帳面と贈り物と茶と人で、ずっと忙しいんだもん」
お江はさらりと言った。
「だから、今日はちゃんとしてみた」
その“ちゃんとしてみた”が、かえって場を和ませた。
私はこの時、ようやく分かった。
お江を“おとなしくさせて見せる”ことばかり考えていたが、それだけではこの子の良さは死ぬ。
この子は、この子らしい一言で空気をほぐす。それを下品にならぬよう、こちらが縁をつけてやればよいのだ。
細川縁の奥方が、茶を口へ運びながら言う。
「よいことにございますね。姉妹で同じ屋敷におられるというのは」
「ええ」
私は静かに頷いた。
「お江がいてくれると、屋敷の空気も少し明るくなります」
「常陸様も、お喜びでしょうな」
その言葉に、私は一瞬だけ相手の顔を見た。
そこには笑みがある。だが、見ているのは私の返しだ。
私は少しだけ笑みを深くした。
「真琴様は、お江がいると屋敷が静かすぎず助かる、と申しております」
それは事実であった。
お江がいることで、安土屋敷は“大名屋敷らしい張りつめ方”ばかりにならずに済んでいる。
「ただし」
私は添えた。
「近すぎれば、家の内のけじめが薄れます。ですので、そこは私がよく申して聞かせております」
奥方たちは、その一言でまた一つ頷いた。
ここが肝なのだ。
妹が無邪気に懐いている。
それだけなら“賑やかで面白い家”で終わる。
だが、その賑やかさにきちんと手綱があると見えれば、今度は“よく整った家”になる。
ねね様の言葉が、ふと胸をよぎった。
良い殿ほど、奥方が手綱を握るものですよ。
私は、その意味を今、お江を通して実地で習っているのかもしれぬ。
しばらくして、私はお江へ目配せした。
「お江、下がりなさい」
「はい」
今度は素直だった。
去り際に菓子皿を見てほんの少し名残惜しそうな顔をしたが、ちゃんとそれだけで済ませた。大した進歩である。
お江が去ったあと、場の空気は明らかに変わっていた。
先ほどまでは“あの妹君はどんな気質か”を測る目があった。
だが今は、“賑やかだが品を損ねぬ”“姉がきちんと見ている”という安心が混ざっている。
佐々家縁の奥方が、ぽつりと言った。
「黒坂家は、何やら陽の気のあるお家にございますね」
「陽の気」
私はその言葉を繰り返した。
「ええ。賑やかでも、浮ついてはおらぬ。姉妹の情も、侍女たちの働きも、皆、家の中へ収まっている」
私はその言葉に、静かに頭を下げた。
「ありがたいお言葉です」
――そう。
まさに、それが欲しかった印象なのだ。
女が多い、ではなく。
常陸様に甘い、ではなく。
陽の気があり、だが家の中へきちんと収まっている。
噂は、こうして別の言葉へ置き換わっていく。
その置き換えをこちらが導けるのなら、奥向きの政というものも、ただ守るばかりではないのだと私は知った。
客を見送ったあと、私はしばらく座敷へ残っていた。
床の間の花は崩れていない。
茶の跡も乱れていない。
お江が一度だけ現れて、一度だけ風を通し、そしてちゃんと去っていった気配だけが、少し面白く残っている。
桜子が入ってきて、静かに言った。
「御方様、先ほどのお江様、お見事でした」
「ええ。私も少し驚きました」
「もう少し危ういかと」
「それは私も思っておりました」
二人して小さく笑った。
すると、襖の向こうからお江の声がした。
「聞こえてるよー」
私は思わず眉を上げた。
「盗み聞きはよくありません」
「盗み聞きじゃないもん。褒められてる気がしたから戻ってきただけ」
まったく理屈になっていない。
だが、その声に救われる空気も確かにある。
私はそこでようやく、安土屋敷におけるお江の立ち位置をはっきりと掴んだ気がした。
この子は、ただ騒がしい妹ではない。
空気を軽くし、場を和ませ、人の構えを少しだけほどく役を持っている。
それを野放しにすれば乱れになる。だが、きちんと縁をつけて見せれば、家の陽の気になる。
茶会の余韻が残る座敷で、私は静かに息をついた。
安土の奥方たちは、笑顔で見ている。
その笑顔の向こうで、家の気配を測っている。
ならばこちらもまた、笑顔のまま、見せたいものを見せていくしかない。
そうやって少しずつ、黒坂屋敷の印象は形になっていくのだろう。




