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茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧①話・第九話 御方様の机、お江の口出し

 安土の黒坂屋敷で、私がもっとも長く座るようになった場所は、意外にも鏡台の前でもなければ茶室でもなく、帳面机の前であった。


 朝に真琴様を送り出し、台所と湯殿の様子を見て、表の座敷のしつらえを整えたあとは、たいていそこへ戻る。

 贈り物の記録、返礼の品の見立て、来客の覚え書き、城下から上がった噂の整理。

 筆を執り、紙をめくり、時に桜子や梅子へ問い、時に使いの者を呼びつける。


 剣や槍の音が響くわけでもなく、見た目はひどく静かな仕事である。

 だがその実、一つ記し間違えれば家の格を損ね、一つ返しを違えれば家同士の距離が変わる。

 静かなだけに、かえって気の抜けぬ務めだった。


 その日も、私は低い机の前に座し、前田家から届いた反物と羽柴家から届いた香の返礼をどうするか、頭を巡らせていた。


「前田家へは少し遅らせて返し、羽柴家へは軽すぎぬよう茶を添える……」


 私が独り言のように呟くと、横で梅子がすぐに筆を走らせる。


「はい。前田家、返礼は三日ほど置いて。羽柴家、茶と香を合わせて、にございますね」


「ええ。佐々家へは実用の物を。見栄えより“分かっている返し”の方が喜ばれるでしょう」


「承りました」


 梅子は本当にこういう記しに向いている。

 字に癖がなく、頭の中も整理されている。もしこの娘が男子に生まれていたなら、どこぞの蔵役で重宝されたやもしれぬ。


 そう思ったところへ、横からぬっと顔が出た。


「姉上様、それ何?」


 お江である。


 私は顔も上げずに答えた。


「帳面です」


「それは見ればわかる。何書いてるの?」


「返礼の見立てです」


「ふーん」


 ふーん、で済むはずがないのがこの妹であった。

 次の瞬間には、もう私の脇へ膝をつき、帳面を覗き込んでいる。


「この前田家って、前田松様?」


「ええ」


「じゃあ、もっと派手なの返した方がいいんじゃない? 松様、派手なの好きそう」


 私はそこでようやく顔を上げた。


「お江」


「なに」


「あなた、松殿を何だと思っているのです」


「え、綺麗で強くて、ちょっと怖くて、でも派手な物も似合う人」


 ……間違ってはいない。

 間違ってはいないが、だからといって返礼に金銀を貼ったようなものを寄越せばよい話ではない。


「似合うことと、喜ばれることは違います」


「そうなの?」


「そうです。松殿は、表だけ派手なものより、“きちんと見て返した”と分かる方がよろしい」


 お江は帳面を見つめたまま首を傾げた。


「面倒くさいね」


「面倒です」


 私が即答すると、お江が吹き出した。


「姉上様、そこはもっと格好よく言えばいいのに」


「面倒なものを面倒と言って何が悪いのです」


 梅子が横でくすりと笑い、それでも筆は止めない。

 こういうやり取りがあると、机の前の空気も少しだけやわらぐ。


 お江はなおも帳面を眺めていたが、次に目を留めたのは、別に置いてあった小箱だった。

 中には、細川家から届いた香が入っている。


「これ、いい匂い」


「勝手に開けないでください」


「ちょっとだけだもん」


「その“ちょっと”が積もるのです」


「姉上様って、最近ほんとに御方様っぽいね」


 お江は悪びれもせずにそう言った。


 私は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに平静を装った。


「最近ではありません。前からです」


「うそ。前はもっと怒るだけだった」


「……お江」


「だってほんとだもん」


 この妹は、時折、まるで刃のように率直なことを言う。


 私は小さく息をつき、帳面を閉じた。


「では、今はどう見えますか」


「今はね」


 お江は少しだけ真面目な顔をした。


「怒る前に、どうしたらいいか考えてる感じ」


 その一言が、思いのほか胸へ入った。


 怒る前に、どうしたらいいか考える。

 たしかに以前の私は、目の前の乱れに腹を立て、その乱れを叱る方が先だったかもしれぬ。

 だが今は違う。叱るより先に、どこをどう直せば家の形になるかを考えるようになった。

 それはたぶん、安土での暮らしが私へ教えたことの一つなのだろう。


「姉上様?」


「いいえ。……少し、考えただけです」


 私はそう誤魔化して、また帳面へ目を落とした。


 その日の昼過ぎ、城下から布屋の使いが来た。


 取次を終えて戻った桜子が、少し考え込むような顔で告げる。


「御方様、先日お越しになった細川家縁の奥方様の所へも、同じ布屋が出入りしているそうで」


「同じ布屋」


「はい。で、先方が申すには、あちらは“きらびやかでよく目立つ色”を選ばれたとか」


 私は少しだけ考えた。


 同じ布屋。

 同じ頃合い。

 ならば向こうも、こちらが何を選ぶかを気にしているやもしれぬ。


 お江がすかさず口を挟む。


「じゃあこっちは逆に地味なのにしよう」


「なぜです」


「えー、だって張り合ってるみたいじゃん」


 私はそこで、ふと手を止めた。


 なるほど、と思ったのだ。


 お江の言葉は、たいてい雑で、半分は勢いだ。

 だが、たまに本質を突く。


 相手が目立つ色を選んだと知って、こちらまで張り合えば、“黒坂家も見せたいのだ”と読まれる。

 逆に品よく落ち着いたものを返せば、“こちらは競っておらぬ”と見せられる。


「……お江」


「なに」


「今のは悪くありません」


「でしょ?」


 すぐに胸を張る。

 褒めるとすぐこれだから困る。


「ただし、“地味”ではなく“品よく”です」


「同じじゃないの?」


「違います。地味は気後れ、品は余裕です」


「うーん、難しい」


 そう言いながらも、お江は楽しそうだった。

 この子は、こうして人の駆け引きを“遊び”のように受け取る節がある。軽さゆえの強さとも言えるが、危うさもある。だからこそ、私の隣に置いて見せておかねばならぬのかもしれぬ。


 桜子が、それを聞いて頷いた。


「では、返礼の反物は落ち着いた藤色あたりに」


「ええ。目立ちはせず、しかし安くは見えぬものを」


「承りました」


 こうしていると、お江の口出しも、ただの騒がしさではなくなる。

 むろん、常に役立つわけではない。むしろ余計なことの方が多い。

 だが、まれに思いもよらぬところから、こちらの目を補う一言が出る。


 私はそれを、少し面白いと思い始めていた。


 夕刻近く、私は真琴様宛の文を一通、机の端へ置いていた。


 今日は戻りがかなり遅くなる見込みで、城へ泊まりになるやもしれぬと小姓から伝えがあったからだ。湯殿のこと、夜食のこと、返礼の見立ての件など、簡単に認めておくつもりだった。


 ところが、席を少し外して戻ると、そこへ妙なものが増えていた。


 文の端に、小さな丸い顔が描かれている。


 私は無言で紙を持ち上げた。


「……お江」


 呼ばれて、お江は廊下の向こうから振り向いた。


「なに?」


「これは何です」


 私は文の端を示した。


 お江は悪びれもせず答える。


「真琴が疲れてるかもしれないから、見たらちょっと笑うかなって」


「勝手に絵を描かないでください」


「だって、字ばっかりでつまんないじゃん」


「文とはつまらぬものではありません」


「でもちょっとくらい――」


「ちょっとが駄目なのです!」


 私の声が少し強くなったので、お江はさすがに肩をすくめた。


 だが、その顔にはまだ少し不満が残っている。

 私はそこで一度息を整えた。叱るだけなら簡単だ。だが、それではこの子には半分も伝わらぬ。


「お江」


「……なに」


「あなたが真琴様を案じて描いたことは分かります」


「うん」


「ですが、この文は私から真琴様へ送る文です。そこへ勝手に別の気持ちを差し込めば、文の形が崩れるのです」


「形?」


「ええ。言葉も、礼も、文も、それぞれ誰がどの立場で出すかが大事です」


 お江は少し考えてから、ぽつりと言った。


「じゃあ、私が別に書けばいいの?」


 私はその言葉に、少しだけ目を見張った。


 たしかにそうだ。

 勝手に私の文へ描き足すのは違う。だが、お江自身の言葉として添えるなら話は別である。


「……そうですね」


「え」


「あなたが真琴様へ何か言いたいなら、別紙へ書きなさい」


 お江の顔がぱっと明るくなる。


「ほんと?」


「ただし、絵だけではなく、ちゃんと言葉も添えること」


「わかった!」


 そう言うや、もう筆を探しに走っていった。

 私はその背を見送りながら、思わず苦笑した。


 まったく、手のかかる妹である。

 だが同時に、こういう柔らかい気持ちを、そのまま押し潰さず、形だけ整えて通すことも、家の中の仕事なのかもしれなかった。


 私は絵のついた文を新しく書き直しながら、ふと思った。


 大津にいた頃、お江はもっとただの“騒がしい妹”だった。

 だが安土へ来て、私の机の横へ座り、帳面や文や贈り物を覗き込むうちに、この子なりに何かを見ているのだろう。


 まだ稚い。

 まだ無遠慮だ。

 だが、その無遠慮さがあるからこそ、重くなりすぎた空気に風穴が開くこともある。


 真琴様が不在の屋敷で、私が完全に一人ではないのは、この子がいるからかもしれぬ。


 夜更け近く、使いの者が安土城へ戻る準備を整えた頃、お江は得意げに一枚の紙を持ってきた。


「書けた」


 私は受け取り、目を通す。


 そこには、やや大きく傾いた字で、


 “ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください。お江より”


 とあった。

 その下に、今度は紙の隅へ、小さく団子の絵が一つだけ描いてある。


 私はしばらく黙ってそれを見たあと、そっと頷いた。


「これは、よろしい」


「ほんと?」


「ええ」


「やった」


 お江は満面の笑みを浮かべた。

 私はその紙を私の文へ添えながら思った。


 机の前で帳面をつけるだけが、留守居の仕事ではない。

 こうして家の中の者の気持ちを、勝手な形でなく、ちゃんとした形へ通してやることもまた、御方様の務めなのだろう。


 その夜、私は真琴様宛の文を二枚、使いへ託した。

 一枚は私の、もう一枚はお江のもの。


 灯の落ちた座敷で、私は机へ手を置いたまま、小さく息をついた。


 安土の黒坂屋敷は、今日も変わらず忙しい。

 だがその忙しさの中で、私は少しずつ、この屋敷の“奥”のかたちを作っている。

 その横でお江が騒ぎ、余計なことを言い、時に困らせ、時に妙な助けをくれる。


 それもまた、今の安土屋敷の暮らしの一つの形なのだと、私はどこか可笑しく、そして少しだけあたたかく思っていた。

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