茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑦⑧話・第六話 噂の火元を探れ
贈り物の帳面をつけ、返礼の品を見立て、来客の名と座敷の格を整える日が数日続くうちに、私は安土という町のもう一つの顔をはっきりと感じるようになっていた。
ここでは、物は門をくぐる前にすでに意味を持つ。
人は座敷へ通される前に、もう半ば見定められている。
そして噂は、誰かが意図して放たずとも、風のように勝手に形を変えて広がっていく。
それに気づいたのは、ある昼下がりだった。
表の門へ、城下の商家から季節の菓子が届けられた。
取次を終えたあと、桃子が包みを抱えて小走りに戻ってきたのだが、いつもの「きれいです」「美味しそうです」という声とは違い、妙に言いよどむ。
「御方様」
「何です」
「門のところで……」
桃子は、包みをそっと脇へ置いた。
「商家の者が、黒坂家は賑やかでございますねって……」
「賑やか、ですか」
「は、はい。その、女の方が多くて、常陸様はお優しいから、皆が寄ってしまうのだろうと……笑って言うておりましたです」
私はその場で眉をひそめた。
笑って言うていた。
そこが厄介なのだ。
悪意のある中傷ならば、火元を断てば済む。
けれど面白半分の噂は、誰も刃を握っているつもりがないぶん、ひどく長く残る。しかもそれは、聞いた者の心に“少し気になる話”として引っかかるのだ。
「桜子を呼びなさい」
「はいです」
桃子が下がると、私は包みを開けることもなく庭を見た。
春めいてきた空気の中で、屋敷の木々は静かに揺れている。
見た目には穏やかだ。だが、穏やかなものほど、内へ入れば厄介なことがある。
ほどなく桜子が来た。
「御方様」
「安土城下で、黒坂家のことがどう語られているか、探りなさい」
私がそう言うと、桜子は一度だけ目を上げ、それから静かに頭を下げた。
「どのような噂にございますか」
「“黒坂家は女が多い”“常陸様は奥方以外にも甘い”――そういった類です」
桜子の顔色が、ほんのわずかに変わる。
「……承りました」
「騒がず、表立たず。どこから、どのように膨らんだかを見ます。悪意があるのか、ただの面白話か、その見極めを」
「はい」
私はさらに付け加えた。
「必要なら、梅子にも手伝わせなさい。城下の出入り商人、湯屋、菓子屋、布屋。女の口を通って広がる話は、女の耳の方が拾いやすい」
「承りました」
桜子はすぐに動いた。
その日の夕刻には、ある程度の輪郭が見え始めていた。
まず分かったのは、悪意のある中傷ではないということだった。
表向きは面白おかしい話。
だが、その中身はばらばらの小さな事実が寄せ集められ、勝手に一つの像へ仕立て上げられたものに過ぎなかった。
たとえば――お江のこと。
あの子が以前、真琴様へ遠慮なく抱きついていたこと。
それは大津での話であり、安土に今お江はおらぬ。けれど人の口というものは、今ここにおるかどうかなど気にせぬらしい。
“黒坂家の若い姫は、殿へ人目も気にせず甘える”
そのように語られていた。
次に――桜子たちのこと。
桜子が真琴様の茶の濃さを知っていること。
梅子が湯殿の好みを知っていること。
桃子が寝具や衣の置き方まで心得ていること。
それらは本来、家を支える侍女として当然の務めだ。
だが外から見れば、
“黒坂の侍女たちは常陸様の身の回りに近すぎる”
という妙な面白さになる。
さらに、花見の日の賑やかさもあった。
女人衆がまとまって動いたこと。
私が女たちをきっちりまとめたこと。
真琴様のまわりに、女たちの気配が絶えぬこと。
それらが、
“黒坂家は華やかだ”
“いや、女が多すぎる”
“常陸様は人たらしらしい”
と膨らんでいったのだ。
私は報告を聞きながら、静かに考えた。
悪意はない。
だが、だからこそ面倒だ。
悪意があれば否定し、断ち切ればよい。
けれど“面白い話”は、否定すればするほど人の耳に残る。
しかも今回は、完全な嘘ではない。真琴様のまわりに女が多いことも、皆があの方へ自然に寄ることも、ある意味では事実なのだ。
私は桜子へ問うた。
「火元は一つではありませんね」
「はい。どこか一人が言いふらしたというより、あちこちで小さく語られたものが結びついたように見えます」
「でしょうね」
私は頷いた。
「城下の湯屋では、お江様の話。布屋では前田家の奥方とのやり取り。菓子屋では花見の日の女人衆の賑やかさ。そこへ侍女たちの間で“御主人様はお優しい”という話が混ざっております」
梅子まで後ろで静かに言った。
「皆、笑って申すそうです」
「ええ」
私は息をついた。
笑って、である。
つまり今の黒坂家の像は、“乱れた家”ではなく“面白い家”“賑やかな家”として安土へ入り始めているのだ。
それは一歩違えば、軽んじられる。
だが逆に、一歩こちらが手を入れれば、
“賑やかだが、きちんとしている家”
へ塗り替えることもできる。
私はそこで初めて、怒るのをやめた。
噂を聞いた時、胸の内にはたしかに熱いものが走った。
だが今は違う。
これは防ぐより、使うべき話かもしれぬ。
「桜子」
「はい」
「この噂、黙らせようとしても無駄です」
「では」
「塗り替えます」
桜子がわずかに息を呑む。
梅子も、桃子も顔を上げた。
「黒坂家の女人衆は、乱れた色ではない」
私は言葉を一つずつ置いた。
「家の内を支える者たちだと、そう見えるようにいたします」
桃子がぽかんとする。
「見えるように、とは……」
「見せるのです」
私はそう言った。
「ただ否定しても、人は面白い方を信じます。ならば、こちらがもっと分かりやすい“格”を見せればよい」
「格……」
桜子が、ゆっくりと繰り返す。
「ええ。賑やかでも、下品ではない。女が多くても、乱れてはいない。侍女が近くても、媚びではなく家の仕え方として近い。そう見せるのです」
私の中で、もう形が見え始めていた。
奥方だけを招いた小さな座を設ける。
花を整え、給仕を整え、女たちの立ち居振る舞いを整え、“黒坂家の奥”を見せる。
そこにおいて桜子たちは騒がず、梅子は過不足なく動き、桃子も余計な愛嬌を抑えて筋を通す。
そうして一度見せてしまえば、噂は勝手に新しい形を持つ。
“黒坂家は女が多い”ではなく、
“黒坂家の女人衆はよく整っている”と。
私は思わず、少し笑った。
防ぐだけでは足りぬ。
安土で生きるとは、外から見える自分たちの像に手を入れることでもあるのだ。
「御方様」
桜子が、静かに問う。
「それは……女の戦、にございますか」
「ええ」
私は迷わず答えた。
「槍も剣も使わぬだけで、れっきとした戦です」
桜子は深く頭を下げた。
梅子も、桃子も続く。
私は庭へ目を向けた。
安土の町では、今日も誰かが誰かの噂をしている。
だが噂とは、風まかせに広がるだけのものではない。向きを読んで帆を張れば、こちらの舟を進める風にもなる。
黒坂家の女たちを、面白おかしい“色”として語らせるのではなく、
家を支える“勢”として見せる。
そう決めた時、私の中で何かが変わった。
守りに入るばかりでは、安土では埋もれる。
こちらから形を作り、印象を置きにいく。
それもまた、奥方の政なのだ。
「桜子」
「はい」
「明日から、茶会の支度に入ります」
「茶会、にございますか」
「女だけの小さな座で構いません。ですが、そこへ黒坂家の奥がどういうものか、きちんと見せます」
桜子の目が少しだけ引き締まった。
梅子もすでに何を整えるべきか考え始めている。
桃子だけが「お菓子は春らしいものがよろしいでしょうか」と、やや早くも張り切っていた。
私はその三人を見ながら思った。
噂の火元を探れ、と命じたつもりだった。
だが、探ってみれば火は消すべきものばかりではなかった。
こちらの見せ方ひとつで、暖をとる火にもなり得る。
安土の女の戦は、どうやらここからが本番らしい。




