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茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑦③話・第一話 花見のあとの静けさ

安土城の花見は、華やかで、どこか息苦しいほどに春で満ちていた。


 天守を遠く望む桜の枝々。

 義父・織田信長のまわりに集う大名たちの衣の色。

 風に運ばれる酒と香の匂い。

 そして、その座に並ぶ者たちの笑みの裏にある、数えきれぬ思惑。


 美しい。たしかに美しかった。

 だが、花見とは本来、ただ花を見て心を遊ばせるものではなかったらしい。少なくとも、安土城においては。


 花が咲けば、人もまたそれぞれの立場を咲かせる。

 誰がどこに座るか、誰が誰に盃を勧めるか、どの家がどの家へ言葉を交わすか。

 花の下で交わされるのは、春の歓びばかりではなく、この国の行く末をめぐる静かな手筋でもあるのだと、私は嫌というほど思い知った。


 そしてその華やぎのあとには、妙に大きな静けさが残る。


 花見を終え、私は真琴様とともに安土の黒坂屋敷へ戻った。

 門をくぐり、庭を抜け、座敷へ入る。

 屋敷そのものは変わらぬのに、花見前と花見後では空気が違うように思えるのだから不思議なものだ。


 桜子たちが出迎え、湯の支度と夕餉の準備が進められた。

 大津の城にいる時とは違い、安土の屋敷はどこか“余所の都”に置かれた出城のような気配を帯びている。もちろん黒坂家の屋敷ではある。だが、周囲を取り巻くのは織田家中の視線であり、城下の噂であり、安土という巨大な権力の中心が放つ緊張だ。


「ふぅ~……花見って、見てるだけでも疲れるね」


 真琴様は部屋へ入るなり、肩から力を抜いてそう仰った。

 昼の座でのぴしりとした顔はどこへやら、すっかり“家に戻った人”の顔である。


 私は思わず、少しだけ笑ってしまった。


「花を見るだけなら、そうでもなかったのでしょうけどね」


「信長様の花見は、花見の顔をした評定みたいなとこあるからなぁ……」


 真琴様はそう言いながら火鉢の前へ寄り、まださほど冷え込んでもいないのに手をかざす。

 その姿に、私は“いつもの真琴様”へ戻られたのだと安堵しつつも、同時にこの安堵が長くは続かぬことも知っていた。


 案の定、その夜のうちに城から使いが来た。


 花見が終わったばかりだというのに、義父・織田信長は真琴様を呼びつけられたのである。

 内容は、毛利への備え、京の公家への手当、近江・美濃の流通整理、その他あれこれ。伝えに来た小姓が読み上げるだけで、聞いているこちらの頭が痛くなるほどであった。


 真琴様は文を受け取ると、嫌そうな顔をしつつも笑われた。


「……うん、やっぱり休ませる気ないよね」


「義父様は、真琴様をお使いになるのが一番お好きですから」


「嬉しくない好かれ方なんだけどなぁ」


 そう言いながらも、真琴様は翌朝の衣を桜子に用意させておられた。

 こういう時、この方は愚痴をこぼしても逃げはしない。そこはまこと、立派だといつも思う。


 翌朝、まだ空気の冷たい刻限に、真琴様は城へ上がられた。


 私が見送りに立つと、真琴様は馬へ乗る前に少しだけ振り向き、


「今日は戻り遅くなるかも」


 と、軽く言われた。


「承知しております」


「茶々、屋敷のこと頼むね」


「お任せ下さい」


 その言葉を交わしたのち、真琴様は供を連れて出ていかれた。

 門の外へ蹄の音が遠ざかる。

 私はその音が消えるまで立っていたが、やがて静かに背を向けた。


 ――ここからだ。


 そう胸の内で思った。


 大津城では、真琴様が不在でも家の気配が濃かった。


 母上様がおられ、お初がいて、お江がいて、桜子たちがいて、城下の風や湯殿の湯気までが、常に人の暮らしを感じさせていた。

 誰かがどこかで騒ぎ、誰かがどこかで笑い、誰かがどこかで口喧嘩をする。

 その賑やかさの中で、私は女主人として立てばよかった。


 だが安土は違う。


 ここには、黒坂家の屋敷が一つある。

 その外には安土城があり、織田家があり、諸家の屋敷があり、無数の目がある。

 屋敷の内が少し乱れれば、それはすぐに「黒坂家はこうらしい」と外へ伝わる。

 侍女の立ち居振る舞い、庭の草木の整い方、来客を通す間のしつらえ、茶を出す間合い、花の置きどころ――その一つひとつが、そのまま“黒坂家の奥”の評判になる。


 私はそれを、花見の場でいやというほど感じていた。


 笑みのまま値踏みする奥方衆の目。

 あの方はどの座敷に通すのか、どの器で茶を出すのか、どのような花を好むのか――そうしたことまで見ている視線。


 ここで私は、ただ“真琴様の妻”として暮らしているだけでは足りない。

 不在がちな夫に代わって、家の顔になる。

 それが、この安土屋敷での私の役目なのだ。


 そう腹を括ると、不思議と心は静かになった。


「桜子」


「はい、御方様」


 私は屋敷の奥へ戻るなり、桜子たちを呼び集めた。


 桜子、梅子、桃子。三人はすぐに揃って膝をついた。

 相変わらず手際が良い。


「今日からしばらく、真琴様は朝早く城へ上がり、戻りも遅くなります」


「はい」


「ならば、屋敷の内を今一度見直します。安土では、大津以上に目が多いと思いなさい」


 三人とも、そこで顔つきを改めた。

 大津での暮らしに慣れ、黒坂家の女としての自信もついてきた頃ではあるが、安土はまた別物だと分かっているのだろう。


「まず、座敷」


 私は立ち上がり、三人を従えて表の間から順に見て回った。


 客を通す座敷。

 そこへ至る廊下。

 庭の見え方。

 障子の紙の張り。

 柱の拭き具合。

 花を置くならどの角度が良いか、香を焚くならどこまでに留めるか。


 桜子は私の指示を聞きながら、必要なことを手早く頭へ入れていく。

 梅子は細かな汚れを見つけるのが早く、桃子は「こちらへ花を置くと御主人様が――」と余計な一言を挟みかけて私に睨まれた。


「今は御主人様の好みではなく、家の見え方を考えなさい」


「はう、申し訳ございませんです」


 桃子はしゅんとしたが、悪気はない。

 この娘は本当に、どこまでいっても真琴様基準で物を考える。


 次に庭へ出た。


 安土の黒坂屋敷の庭は、大津城の庭ほど広くもなく、また母上様の御殿ほど女の気配に満ちてもいない。

 だが、だからこそ手入れの粗さが目立つ。


「この枝、少し払わせなさい」


「はい」


「飛び石のまわりも掃かせますか?」


「ええ。雨の跡が残っております」


 私は庭を見ながら思った。

 庭というものは、家の顔だ。

 奥方の気の回りようは、庭を見れば分かると母上様はよく仰る。

 ならば、この屋敷の庭もまた、ただ美しければよいのではない。黒坂家の女が、きちんと手を掛けていると伝わらねばならぬ。


 それから、接客の動きも見直した。


 どの奥方が来たなら、誰がまず出るか。

 取次は誰がし、茶は誰が運び、控えの侍女はどこに立つか。

 大津では多少賑やかでも笑って済んだことが、安土では“しつけが行き届いておらぬ”と見られることもある。


「桃子」


「はい」


「相手が前田松様のような親しい方でも、最初の一礼は深く」


「はいです」


「桜子、茶を出す間を急ぎすぎぬこと。待たせすぎも駄目ですが、走って出したように見えては下品です」


「承りました」


「梅子、控えの間の火鉢はもう少し奥へ。客の裾へ匂いが移ります」


「はい」


 指示を出しながら、私は自分でも少し驚いていた。

 こういうことは、以前の私なら母上様の背を見ながら学ぶばかりだった。

 だが今は、考える前に目が動き、口が動く。

 黒坂家の女主人として積んだ時間は、きちんと私の中へ残っているのだろう。


 ひと通り見て回ったあと、私は表の間へ戻った。


 そこは静かで、少し広く、少し冷たかった。

 大津城の食事の間のように誰かの笑い声が残っているわけではない。

 けれど、その静けさの中へきちんとした形を置くこと。それもまた、安土での私の仕事なのだと思えた。


「御方様」


 桜子がそっと言った。


「はい」


「安土では、大津以上に緊張いたしますね」


 その言葉に、私は少し笑った。


「ええ。ですが、怯える必要はありません」


「はい」


「きちんと整えればよいのです。目が多いなら、多いなりに、見られて困らぬ家にいたしましょう」


 三人は揃って頭を下げた。


 その時、私はようやく、安土屋敷での自分の立ち位置をはっきり掴んだ気がした。


 ここでは、真琴様が不在の時間が増える。

 ならばその空白を、ただ待つだけの時間にしてはならぬ。

 私は黒坂家の御方様として、この屋敷を保ち、整え、客を迎え、評判を守らねばならない。


 花見のあとの静けさは、ただの余韻ではなかった。

 それは、華やかな場が過ぎたあとに初めて見える、本当の役目の輪郭だったのだ。


 私は座敷の中央へ立ち、きちんと整えられた庭を眺めた。


 大津では、城の中に暮らしを根づかせることが務めであった。

 だが安土では、その暮らしに“格”を与えることが務めとなる。


 どちらも難しい。

 どちらも、女主人の仕事だ。


 私は静かに背筋を伸ばした。


 真琴様が城で政と軍略に追われるなら、私はこの屋敷で黒坂家の顔を守ろう。

 そう心に定めた時、花見の残した華やぎは、ようやく私の中で静かな覚悟へ変わったのである。

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