茶々視点外伝『大津城に池坊専好来たる』編・①⑥⑧話・第一話 『春を迎える手――池坊専好、大津城へ』
春の気配とは、不思議なものである。
まだ朝夕の風は冷たく、囲炉裏の火が恋しいというのに、庭の木々の先端にはほんのわずか柔らかい色が混じり始め、城下の空気にも冬の張りつめた硬さとは違う緩みが出る。
大津城へ移ってからというもの、私は城の台所、湯殿、御殿、城下のあれこれに気を取られてばかりだったが、そうした日々の合間にも季節だけはきちんと進んでいた。
義父・織田信長より、安土での花見茶会が近いと知らせが来たのは、そんな折であった。
花見そのものも無論大事だが、義父が催す茶会である。
ただ花を愛でればよいというものではなく、座敷のしつらえ、花、香、茶器の取り合わせ、そこに座る者の気配に至るまで、すべてがその家の格として見られる。
私は文を読み終えると、すぐに母上様の御殿へ向かった。
「母上様、安土での花見が近うございます」
そう申し上げると、母上様――お市は、手元の薄茶碗から視線を上げて頷かれた。
「ええ、聞いています。兄上が花を前にして静かに茶を喫するなど、少し前までは想像も出来ぬことでしたが」
その口元には、少しだけ笑みがあった。
私もつられて微笑む。
「茶会となれば、花もまた大事にございます」
「そうですね。花は座敷の格を決めます」
母上様がそう仰った時、私の胸にはすぐ一人の名が浮かんだ。
池坊専好様。
かつて私が花を学ぶ折、厳しくも静かに導いて下さった師である。
花を立てることは、ただ美しく並べることではなく、心を整え、場を整え、人の目線の流れすらも計ることなのだと教えて下さった方。
この大津城での暮らしが少しずつ根づき、黒坂家の女たちもようやく落ち着いてきた今なら、あの教えは私一人のものにしておくより、家の内へ広げた方がよいのではないか――そう思った。
「母上様」
「何です」
「専好様を、お招きしとうございます」
母上様は、私の顔を見てすぐに意味を察したらしい。
「花見の前に、大津の女たちへ花を学ばせるのですね」
「はい。私だけでなく、お初、お江、桜子たちにも。春を迎える支度として」
母上様は静かに頷かれた。
「良い考えです。あの子たちも、ただ騒がしいだけでなく、座敷に春を置くことを覚えれば、城の空気が変わりましょう」
そうして私は、京へ使いを走らせた。
数日後、専好様は快く来城して下さった。
その日、大津城は朝からどこか引き締まっていた。
専好様を迎える場は、華美すぎず、しかし粗略でもないよう、二ノ丸の一室を選ばせた。
床の間には何も置かぬ。今日は、師を迎えてから花材を見立てるためである。
畳は拭かせ、障子の汚れも見させ、外の庭木まで少し整えさせた。
真琴様には「今日は花の師匠を迎えるので、部屋の前を泥足でうろうろしないで下さい」と先に言い含めておいた。
すると真琴様は、少しばかり不服そうにしながらも、
「え、俺そこまで信用ない?」
などと申されたが、過去の実績を挙げればきりがないので、私は無言で見つめるだけにしておいた。
やがて、専好様が到着なされた。
変わらぬ静かな佇まいだった。
けれど、その静けさの奥には人と場をよく見る鋭さがある。
私はすぐに進み出て、深く頭を下げた。
「専好様。遠路、大津までお越しいただきありがとうございます」
専好様は穏やかに笑まれた。
「茶々様が、良き御方様になられた様子も見たく存じましてな」
その一言に、私は少しだけ頬が熱くなった。
師とはありがたいものだ。褒める時も、ただ甘やかすようには仰らぬ。今の自分を見た上での言葉だと分かるから、余計に身が引き締まる。
母上様も迎えに出ておられた。
「専好殿、お久しゅうございます」
「お市様も変わらずお美しゅう」
「花の師にそう言われては、光栄にございます」
母上様の返しもまた、実に自然で美しかった。
私は内心で、やはりこの方のそばにいると、自分の立ち居振る舞いまで正されると感じる。
ひと通りの挨拶が済むと、私は今日の主題を切り出した。
「専好様。今日は私一人ではなく、城の女たちにも花を学ばせとうございます」
「ほう」
専好様は細い目を少しだけ開き、面白そうに私を見た。
「大津城の春支度にございます。安土での花見も近うございますゆえ」
「ようございます。花は一輪で座を変えます。城であれば、なおのこと」
そして私は、あらかじめ呼びつけておいた面々を入らせた。
最初に入ってきたお初は、案の定、不満を顔に書いていた。
「姉上様、やっぱり私、剣の方が性に合うのだけど」
「剣で春を生けられますか」
「斬るなら得意よ」
「お初」
私が名を呼ぶと、お初は口をつぐんだ。
だが不服そうな顔は隠せていない。
次のお江は、部屋へ入るなり並べられた花材の籠へ目を輝かせた。
「わあ、かわいい! お花摘みなら得意!」
「摘むだけでは駄目です」
「えー、でも摘むの楽しいよ?」
「今日は摘んだ先の話です」
お江は首を傾げたが、すでに梅の枝へ触れたそうに指先をうずうずさせている。
そして桜子、梅子、桃子の三人は、揃って深く頭を下げた。
「御方様のお役に立つなら」
「精いっぱい学びます」
「お、お花も……頑張るのです」
三人とも緊張が分かりやすい。
桜子は気丈に見えて背筋が硬く、梅子はすでに“失敗してはならぬ”顔をしている。桃子にいたっては、花籠より専好様の表情ばかり見ていた。
専好様は、そんな面々を一人ずつ見て、何も急がせず、ただ静かに座へ着かれた。
「ずいぶん賑やかな春の座にございますな」
お初が「賑やかなのは主にお江です」と小声で言う。
お江は「聞こえてるよ」と返し、そこで早くも小競り合いの気配が立ったので、私は目で制した。
専好様は少しも動じず、床の間の空白を眺めてから言われた。
「花を生けるとは、心の並べ方を見ること」
私は、その一言で胸の奥が少しだけ緊張した。
ああ、やはりそう来るのですね――と思ったのだ。
専好様は、ただ枝ぶりや高さの話だけをなさる方ではない。花を前にすれば、その人の気質、心の癖、場の乱れまで見抜いてしまう。
つまり今日は、私だけでなく、お初もお江も桜子たちも、花を学ぶと同時に、自分の心を見られることになる。
お江だけはそんなことも知らず、きらきらした目で尋ねた。
「専好様、このお花、食べられる?」
私は思わず額に手を当てた。
お初は横で吹き出しそうになり、桜子たちは青くなった。
だが専好様は、ほんの少しも笑わずに答えられた。
「食すには向きませぬが、目で味わう花もございます」
「目で味わう?」
「はい。腹ではなく、心へ入れるのです」
お江は「ふーん」と感心したような顔をした。
たぶん半分も分かっていない。
そこへ桃子が、妙にきらきらした顔で言った。
「専好様、御主人様のお部屋にも飾ります?」
私はその場で、桃子の方を見た。
「まだ始まってもおりません」
「で、ですが、御主人様のお部屋に春が入ればお喜びになるかと」
「あなたはまず、自分の花を生けられるようになりなさい」
「はう」
桃子は肩をすくめたが、完全には諦めていない顔だった。
この辺りが、いかにも桃子である。
専好様は、そんなやり取りを面白がるでもなく、静かに見守っておられた。
そして私へ視線を向ける。
「茶々様」
「はい」
「城の春支度とは、よう申されました。花を習うとは、技を増やすことにあらず。誰をどこへ置き、何を活かし、何を引くか――それを知ることでもあります」
その言葉に、私はほんの一瞬、胸を衝かれた。
花を生けることと、城の女たちをまとめること。
違うようでいて、どこか似ている。
お初の気の強さ、お江の奔放さ、桜子たちの慎ましさ。どれも無理に同じ形へ押し込めれば、かえって座が濁る。
それぞれをどう置き、どう活かすか。それが問われるのだ。
「……今日も、一筋縄ではいかぬご教授になりそうです」
私がそう言うと、専好様はようやく少しだけ笑われた。
「そうでなければ、茶々様が私を呼ぶ意味も薄うございましょう」
たしかに、その通りだ。
私は背筋を正した。
大津城に春を迎えるための一日。
だがこれはただ花を習うだけの会ではない。
この城の女たちが、それぞれどのような“花の心”を持っているかを知る日でもある。
専好様は静かに手を上げられた。
「では、まずは花材を見なさい。触れる前に、見て、呼吸を整え、何を立てたいのかを考えるのです」
お初はまだ不承不承という顔だった。
お江はすでに何か触りたそうにしている。
桜子たちは緊張で少し青い。
そして私は、その面々を見ながら思った。
この日、きっと大津城の中で、また一つ面白い騒ぎが起きる。
だがそれもまた、春を迎える手として悪くはないのだろう。
そうして、大津城における生け花の稽古が始まったのである。




