茶々視点外伝 茶々視点・①②⑨話・真琴帰宅
夕日が完全に西の山へ沈み、城内の行灯に火を灯す家臣たちが、ぱたぱたと廊下を行き来しはじめた頃だった。
外の風は冷たく、板戸の隙間から入り込む夜気が、火鉢の炭の匂いをいっそう際立たせる。
その時、大津城の門口に使いが現れた。
「安土屋敷より、前田慶次様の使いにございます」
差し出された手紙は、封の糊が乾ききらぬうちに急いで持ってきたのだろう。私は受け取り、灯りの下でそっと目を通す。
墨の勢いが強い。慶次らしい……と言いたいところだが、字は意外と整っている。
こういうところだけ、妙に律儀なのだから油断ならない。
読み始めたところで、廊下の奥から足音がした。
袴の擦れる音。――帰ってきた。
真琴様が、土埃が付いた羽織のまま部屋に入ってこられる。
「ふぅ~、ただいま。……埃っぽいから、湯に入るよ」
軽く言うその調子に、こちらの緊張がほどけそうになる。
だが、手紙の内容は軽くない。
「お帰りなさいませ。湯は梅子が沸かしております。――それより、安土から知らせが届きました。晦日に“銀閣寺城”へ入るよう、各大名に御触れが出たそうです。真琴様も登城するよう、義父・織田信長が申してきたと」
私が要点を伝えると、真琴様は火鉢の前で一瞬だけ動きを止めた。
眉が、ほんの少し寄る。
「晦日かぁ……。年末は雄琴の湯に湯治にでも、って考えてたけど……仕方ないか。茶々、仕度頼むね」
「はい、承りました」
返事をしつつ、私は手紙の続きを指先で押さえたまま、改めて中身を追う。
“毛利、足利を滅ぼした”――その文字が、灯りに照らされて妙に生々しい。
真琴様の助言が、刃の代わりとなって、戦を終わらせた。
そう考えると、胸の奥が少しだけ冷える。
「……なんの用で登城なんだろ?」
真琴様が、独り言のように言う。
「手紙には……毛利と足利が滅びたと――」
私が続きを読もうとした、その時だった。
障子が静かに開き、母上様が声を掛けながら入ってこられた。
「兄上からの知らせですね? 私のところにも使者が参りました。兄上が将軍宣下を受けられると……常陸様が勧められたのですよね? 征夷大将軍」
母上様は穏やかな口調だが、眼は冴えている。
“将軍宣下”――たったそれだけで、国の形が変わる。
戦が終わるのではない。戦の理由が変わるのだ。
真琴様は、どこか照れたように頭の後ろを掻いた。
「あ~……かなり前に、評定に出たときに勧めましたね。日本を統治するための大義名分として、征夷大将軍は取り敢えずなるべきだと。信長様、朝廷を軽んじてるけど、大義名分……天下統一の旗印は必要だから」
言いながら、真琴様は少し声を落とす。
そして、続けた言葉が――私の胸を、ちくりと刺した。
「……足利義昭を倒しても“主殺し”にならないよう、朝廷に討伐令を出して貰うようにも助言したな」
(足利義昭を殺しても謀反にならぬ策――)
そのおかげで戦は終結した。確かにそうだ。
だが、策が正しくても、そこに命がある。私は思わず、手紙を握る指に力が入った。
母上様は、そんな私の沈黙を見逃さず、静かに話を引き取る。
「兄上が将軍宣下の義を諸大名を集めて執り行うと、地方にまで馬を飛ばしたので、今頃各地ではてんやわんやのはずですよ」
「奥州とかの大名、大変そうですね。うち、近くてよかった~……。正月の京かぁ……寒いんだよな……」
真琴様は最後だけ、急に心底嫌そうな声になる。
天下の大事より、寒さが怖い――その感覚、分からなくもないのが悔しい。
私はため息を飲み込み、淡々と現実を積み上げる。
「はいはい。真田家からいただいた熊の皮、まだありますから。それを着られるように仕立てさせます」
「おっ、それいいね。茶々頼んだ」
……将軍宣下の場に“熊”が現れる。
想像してしまい、口の端が僅かに上がるのを必死で押さえた。
私が笑えば、真琴様は調子に乗る。
そこへ梅子が襖の外から声を掛けた。
「御主人様、湯の仕度ができましたです!」
「じゃ、入ってくる」
真琴様はさっと立ち上がり、湯殿へ向かわれた。
背中に張り詰めたものが少し抜けたのが分かる。――本当に、湯が命綱の方だ。
真琴様が出て行かれると、母上様が私を見て、くすりと笑った。
「茶々、熊の毛皮を着せて登城させる気ですか?」
「母上様、真琴様は“天下御免”の約定がございますから」
私がそう返すと、母上様は声を殺して笑われた。
「はははははっ……確かに兄上と取り交わした約定がありましたね。その約定のおかげで“熊”が登城する。兄上が何と言うか、見てみたいものです」
母上様は、愉快そうに目を細めた。
きっと、義父の顔まで想像しておられるのだろう。
「……では、私は戻ります。茶々、仕度の段取り、抜かりなく」
「はい、母上様」
母上様は小さく頷き、少し笑いを残したまま部屋を後にした。
障子が閉じる音が、冬の夜気に紛れて小さく響いた。




