茶々視点外伝 茶々視点・①②⑥話・大津城に尊朝②
仏間に入ると、香の匂いが先に鼻を打った。
父上様、御祖父様……浅井の方々の位牌の前で、比叡山座主・尊朝が経をあげていた。
低い声が板張りに反響し、波のように耳へ入ってくる。
冬の冷気に混ざって、香の煙がゆらゆらと漂っていた。
私は下座に腰を下ろし、手を合わせる。
母上様がこちらに気づき、ほんの僅かに首を下げた。
――その所作が、母上様の心の揺れを語っていた。
読経が終わると、尊朝はゆっくりと私達へ向き直った。
「浅井様の仏前で経をあげる日が来ようなど、思っておりませんでした」
母上様が、複雑な笑みを浮かべて答える。
「それを言うなら、私は比叡山座主様に供養いたしていただく日が来たことが、不思議なくらいで……」
沈黙が落ちた。
香の煙だけが静かに揺れ、位牌の金具がかすかに光る。
私はその沈黙が重くなる前に口を開いた。
「本日は殿は領内巡察に出ております」
尊朝は慌てたように手を合わせ、深く頭を下げる。
「突然の登城、お許しください。安土の織田様と対面にて和睦の儀をいたしてきた帰りに、勝手に寄らせていただいたので……お目にかかるなどとは思っておりません」
「左様でしたか」
私は淡々と返す。淡々としなければ、心が乱れる。
尊朝は言い訳のように続けた。
「よい機会だったので、仏前で読経を……」
その言葉に、母上様が静かに言う。
「茶々。私が頼んだのですから」
私は一拍おいて頷いた。供養は、母上様の心に関わること。
私が踏み込む場ではない。
それでも――“勝手に寄った”などと、軽く済ませてよい話でもない。
「供養のことは母上様次第だと思いますので、よろしいですが……あまり突然の登城は、いくら尊朝殿でも――」
言いかけた私を、尊朝はむしろ面白がるような目で見た。
「流石、常陸様の奥方となられただけのことはありますな。この私にひるむことなく注意する。いや……流石です」
「注意などとは……」
口では否定しながらも、私は視線を逸らさなかった。
ここで怯めば、黒坂家の名が軽くなる。真琴様が築こうとしているものまで、揺らいでしまう。
尊朝は、今度は本当に恐縮したように額が畳に触れそうなほど頭を下げた。
「もうすぐ年の瀬。寺は忙しくなりますゆえ……本当に今回は、ついでに勝手に登城いたしました。お許しください」
そこまで頭を下げられれば、これ以上言葉を重ねるのは、私のほうが角が立つ。
私は息を整え、声の温度を少しだけ落とした。
「……そこまで申されるなら」
それ以上の言葉を、私は止めた。
香の匂いが、少し強く感じられた。




