茶々視点外伝 茶々視点・①②④話・大津城での暮らし
大津城は平城と呼ばれる城で、安土城に比べて地形は平坦。
主な居住区である御殿も段差が少なく、廊下の板もよく磨かれていて、確かに暮らしやすい。
――けれど、城が琵琶湖へ突き出しているせいで、風だけは容赦がなかった。
湖面を渡ってくる冷たい風が、御殿の縁や廊下の隙間をすり抜け、夜になると柱そのものが冷え切っているのが掌に伝わるほどだった。
寒がりの真琴様は、真田昌幸から以前賜った毛皮を肩からすっぽりと纏い、御殿と政を行う役人詰め所をせわしなく行き来していた。
毛皮の裾が揺れるたび、獣の匂いと温もりが一緒に漂い――初めてそれを見た家臣たちは、一瞬だけ本気で足を止めた。
「……く、熊?」
誰かの喉が鳴る音すら聞こえた。
次の瞬間、真琴様がこちらを向いて「寒い、寒い」と小声で嘆いたものだから、皆が慌てて頭を下げ、視線を逸らした。
噂の若い城主が“熊を連れて歩いている”と、城内で囁かれたのは言うまでもない。
「あんたねぇ〜、寒い寒いってなんなのよ」
お初が苛立ち混じりに言い、毛皮の端をつまんで引っ張る。
その声だけは、冬の風より鋭い。
「だって寒いものは寒いって……ほら、湖の風、骨まで来るんだよ」
真琴様は言い訳じみた口調のまま、しかし手元の文書には目を落としたまま、役人詰め所へ足を向ける。
――この人の厄介なところは、弱音を吐きながらも仕事の手は止めないところだ。
私は視線を森力丸へ送った。
「力丸、風呂の湯を運ばせなさい」
「はっ」
力丸は一瞬で意図を汲む。
雄琴温泉から湯を運ばせ、大津城内に新設された風呂へ入れ、すぐに沸かし直させた。
湯は“沸かし湯”にはなる。けれど元が温泉ゆえか、湯の立ち方が違う。
湯気が柔らかく、肌に当たると芯からほどけるように温まっていく。
真琴様は湯上がりに頬を赤くして、珍しく素直な声を漏らした。
「……これ、いい。ほんとに温まる」
さらに、すべすべとした湯の感触が――雄琴温泉で真琴様が軽口交じりに言った「美人の湯」という言葉を、しっかり覚えていたお初にも妙に好評だった。
「……ふん。悪くないわね」
言い方はつっけんどんでも、頬の火照りと髪の艶が、機嫌の良さを隠しきれていない。私は内心で小さく息を吐く。――風の強いこの城で、湯だけは味方だ。
食事の間には囲炉裏も設けていた。
「食事の間に囲炉裏作っておいてよかった〜」
真琴様が手をかざしながら言う。
炭が赤く熾り、鍋の湯気がのぼる。部屋の冷えが、囲炉裏を中心に一段だけ緩むのがわかった。
私は釘を刺すように返した。
「真琴様、炭代も馬鹿に出来ませんからね」
「うっ、うん……」
一瞬だけ肩をすくめた真琴様は、すぐに真面目な顔に戻る。
黒坂家は確かに金がある。けれど、贅沢の積み重ねが“当然”になった瞬間から、城はすり減り始める――それを私は怖れていた。
ところが真琴様は、囲炉裏の火を見つめたまま、静かに続けた。
「……んと、真面目な話。湯を沸かして部屋を加湿するのは、風邪蔓延防止になるから、これは続けたい。風邪は万病の元だから」
「湯を沸かす事で風邪にかかりにくくなるのですか?」
私は思わず聞き返した。
すると真琴様は周囲に人がいないか確かめ、声を落とす。
「部屋の湿り気が高いと、風邪のもとになる、目に見えない小さな生き物の活動が弱くなる。それに喉が乾かないから、入り込みにくい」
胸の奥がひゅっと鳴った。私はさらに声を落として寄り添う。
「……未来の知識ですか?」
真琴様は大きく頷いた。
その頷きに、私は安堵と同時に、言い知れぬ緊張を覚える。
便利な知恵は、同時に“異物”でもある。
使い方を誤れば、嫉妬や疑念を呼び寄せる――黒坂家を取り巻く空気を思うと、背筋が冷える。
私が小声で病の話を聞いているところへ、廊下から前田慶次の声が割り込んできた。
「おっと、仲睦まじくしていたか大将!」
「違います。ふざけた事を言っていると怒りますよ」
私はすぐに真琴様と距離を取り、視線で慶次を制した。
慶次は扇子で首の後ろをかき、へらりと笑う。
「松みたいで恐くなってきましたな、茶々様。……まっ、それは良いとして。大将、役目に戻るから安土に」
「あ〜そうだった」
真琴様は毛皮の襟元を直し、表情を切り替える。
「慶次、安土に戻って、町の声、城の声、織田家家中の声……兎に角拾える声は全て拾って。第二の明智光秀を出さないよう頼むよ」
慶次の目が一瞬だけ鋭くなる。
「おう。俺の得意とする所だってよ。それと鉄砲調達だったな」
「あぁ。火縄銃を本当に三千丁にしたい。頼む」
「おう。職人と酒酌み交わして、こっちに移住させるから任せろ」
慶次は用件だけ言い切ると、足早に去っていった。
廊下に残るのは、乾いた冬の風と、慶次の酒気を含んだ笑いの気配だけ。
真琴様は私の方を向き、まるで日常の延長のように言った。
「茶々、聞いての通り。黒坂家の火縄銃は全部本物にするから、金の用立て頼む」
「はい、引き受けました。力丸と調整いたします」
私はすぐに算段を頭の中で組み立てる。
今井屋に預けている金子、蔵に移す量、運搬の手配、帳面の整合――それらを順に繋げていく。
そして、真琴様はまだ“本当のところ”をわかっていない。
黒坂家の財力なら、三千丁どころか――下手をすれば一万丁の火縄銃すら用立てられるほどの金が、眠っていることを。
その事実が頼もしい反面、同じだけ恐ろしい。
財は刃だ。振るう者の手が誤れば、敵だけでなく味方の目にも血が映る。
私は火鉢の湯気を見つめながら、静かに決めた。
この城で真琴様が“寒い”と零しても、私はこの家の内側だけは冷やさない。――湯も、火も、金も、全ては守るために使うのだ。




