茶々視点外伝 茶々視点・①②①話・婚礼行列出立
1584年11月吉日
その日、私は昇る朝日に合わせて安土黒坂家屋敷を出立した。
まだ夜の冷えが畳の裏に残る刻。行列の支度に走る足音、具足の小札が擦れる乾いた音、槍の石突が地を打つ鈍い響き――それらが屋敷の静けさを一枚ずつ剥がしていく。
滞りなく進めば、日の入り頃には大津城へ入れるようにと計算された日程。
だが“計算通り”という言葉は、戦国では祈りに近い。天候、道の具合、沿道の混雑、そして何より――人の気まぐれ。私は輿の中で背筋を正し、袖口の乱れをそっと整えた。
事前に織田家家中へ輿入れの日取りが触れ回っていたため、この日早朝から安土の町は沿道に一目見ようとする人だかりだった。
家々の軒先には早くから火が入り、湯気と味噌の香が細い路地から漏れてくる。町人たちは口々に何かを言い合い、子らは母の袖を引いて背伸びをし、武士たちは表情を崩さぬまま目だけで行列を追っていた。
私は輿の中から、御簾越しにその人だかりを見る。
御簾があるというのに、視線が皮膚に触れるような錯覚がした。――この身は“茶々”である前に、“黒坂家の御方”として見られている。
祝福も、好奇も、羨望も、そして僅かな悪意も混ざった眼差しを、私は全部ひとつに束ねて受け止めねばならない。
安土の町の総構えの外門にあたる場所で、前田松と千代が大きく手を振っていた。
松殿はいつも通り背筋が伸び、千代は小さな体を精一杯伸ばしている。
あの幼さが、妙に胸に刺さる。
大津へ移れば、もうこのように顔を合わせることも頻繁ではなくなるだろう。
「御方様、前田様の奥方と姫にございます」
輿脇で控える者が低く告げる。私は一息置き、声の調子を整えてから言った。
「律儀ですね。前で一度止まりなさい」
「はっ」
合図が伝わり、輿がわずかに揺れを止める。担ぎ手の息がそろい、行列のざわめきが一瞬だけ静まった。
その沈黙の中、私は御簾越しに声を掛ける。
「大義です」
すると松殿はすぐに膝を折り、千代の肩をそっと押して共に頭を下げた。
千代が小さな声で「ちゃちゃさま……」と呼んだのが聞こえ、私は胸の奥が微かに温かくなるのを感じた。
だが、顔には出さない。出してはならぬ。
松殿は顔を上げ、通る声で音頭を取った。
「茶々様、並びに黒坂家の弥栄を願い――万歳、万歳、万歳!」
前田家家臣と思しき者たちと、松殿の仲間と思われる集団が声を合わせ、万歳三唱をした。
その声が朝の空気を震わせ、沿道の人々の胸にも火を入れる。
誰かが「黒坂様万歳」と追い声を上げ、しかしすぐに周囲の武士が目で制して静まる――そのやり取りまで、私は御簾の奥で見て取った。
私は騒ぎが落ち着くのを見届け、輿の内側から小さく手を上げ、進む合図を出した。
担ぎ手が息を合わせ、再び輿が動き出す。
去り際、千代がもう一度だけ手を振った。
松殿はその手を押さえ、きちんとした礼を崩さない。……あの女は、こういうところが抜け目ない。
安土から大津へ向かう陸路は初めて。
進む道は、近ごろ大きく拡げられたばかりの形跡が散見された。
切り倒されたばかりの切株、真新しい土の盛り、轍が深くならぬよう敷かれた小石。脇には簡素な溝が掘られ、水が流れるよう工夫されている。
義父・織田信長が整備を命じたことは明白だった。
これだけ広い道幅なら早馬の行き来は問題ない。
行列も二列で、滞りなく進める。
――つまりこれは、黒坂家のためであると同時に、織田のためだ。
黒坂家が大津に根を張ることが、織田の背骨になる。
私はそれを理解している。理解しているからこそ、背筋が痛むほどに伸びる。
通りかかった旅人は脇に寄り、頭を下げ立ち止まる。
笠の陰から恐る恐るこちらを覗く目もあれば、合掌して動かぬ者もいる。
中には震える手で土下座し、「御方様、道中ご無事に」と声を絞り出す者もいた。
私は御簾の向こうで小さく頷くだけに留める。
返事をすれば、行列が止まる。止まれば、後ろが詰まる。詰まれば、混乱が生まれる。混乱は噂になる。噂は牙を持つ。
少し離れた所で畑仕事をしていた者は、かぶり物を取り、手を止めて私達の行列を見ていた。
土の匂いが風に乗って流れ、蜻蛉が一本の槍先の上をふわりと横切る。
秋の光は柔らかいのに、視線は硬い。――私はその硬さを受け止めながら、ただ静かに、前を向いた。




