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茶々視点外伝 茶々視点・①①⑦話・静寂黒坂屋敷

引っ越しの後の黒坂屋敷には、前田慶次の家臣と、私の護衛として残った黒坂家の忍びだけが詰めることとなり、屋敷は嘘のような静寂に包まれていた。


広間の畳はつい昨日まで人の気配で温かかったのに、今は空気が澄みすぎて、行灯の油の匂いさえはっきりとわかる。

庭の砂利を踏む音がやけに響き、時折、屋根の上を走る忍びの足音が“ここにいる”と教えてくれる――それだけが、私の心を落ち着かせた。


前田慶次は一度大津城へ軍勢を率いて入城したものの、安土屋敷の留守居役としてこの屋敷の管理と安土での情報収集を任されている。

真琴様の“安土での宿舎”として屋敷は残されるため、家財も最低限は置かれていた。空になった部屋が多いほど、残した箪笥や火鉢が妙に目立ち、まるで「ここはまだ黒坂家の場所だ」と主張しているようだった。


――問題は、その“場所”を、あの傾いた男がどう使うか、である。


慶次は頼りになる。町の者と通じ、噂を拾い、裏を支える。

けれど同時に、派手好きで酒好きで、そして――油断すると何をしでかすかわからない。


私は縁側に座り、茶碗を手にしたまま、思わずため息を吐いた。

この静けさは、安心ではなく“嵐の前”にも似ていて、胸の奥が落ち着かない。


その時だった。


「御免下さいませ。門番には声を掛けたのですが……」


中庭へ入ってきたのは、前田松殿だった。凛とした立ち姿は変わらず、けれど目の端に、母としての心配が滲んでいる。


「松殿……」


「茶々様のこと、お市様より頼まれておりまして。様子を見に来たのですが……護衛はいるようですね」


「心配は必要ありません。黒坂家の手練れが五十。それに夜になれば森蘭丸がさらに家臣を連れて、屋敷周囲を見回る手はずです」


言いながら、私は庭の影に目を向ける。

忍びは見えない。けれど、“見えないこと”こそが彼らの強みであり、私の支えでもある。


松殿は少し肩の力を抜き、


「左様でしたか。前田家も二百名ほどですが兵を待機いたしております。なにかあれば当家に逃げてきていただければ……佐々家も五十ほど、すぐに動かせるようにしておりまして」


「わかりました。なにかあれば前田家に行きましょう。それより――松殿」


「はい?」


私は声を落とし、わざと真面目な顔を作った。


「この屋敷には慶次が留守居役として詰めることになっています」


「聞き及んでおります」


「……目を光らせておいて下さい」


松殿は、一瞬だけ口元を引き結び、それから妙にきっぱりと頷いた。


「はっ。いつでも御当主・常陸様がお見えになっても、よいよう管理させます」


言うなり、なぜか松殿は――尻を叩く仕草を、ほんの少しだけ、見せた。


私は思わず笑ってしまった。

笑ってしまったのだが、その笑いの奥に、同じ心配があることも伝わってくる。


「慶次のことは、義兄から頼まれているので……」


松殿がぽつりと言う。

前田家家督は本来、前田利家殿の兄君が継いでいた。しかし義父・織田信長の命で利家殿が当主となった経緯があり、その折に慶次もまた家を出た。今は戻り、父君は領内で隠居――事情は複雑で、だからこそ松殿の“家”への向き合い方は強い。


「真琴様は頼りにしていますし、実際、町の者と通じ裏を支えているのですが……派手好きと酒好きが……」


私がため息を落とすと、松殿も同じようにため息をついた。


「口を酸っぱくして注意しているのですが……」


「真琴様は気にしていません。だから私は、あまり口出しいたしませんがね」


そう言ったものの、心の中では叫んでいた。

気にしないのが真琴様の長所であり、短所でもある、と。


松殿は私をまっすぐ見て、


「茶々様。黒坂家のかかさまとして、慶次の尻を叩いて教育いたしてください」


「四十過ぎの大の男の尻を叩くなど……家臣だとて、そんなはしたないこと出来ません」


「茶々様はお上品すぎます。もう少し上様を見習い、厳しい叱責も――」


「……考えておきましょう」


言いながらも、私は“考えるだけ”で終わらせる予感がして、内心で自分に呆れた。


松殿としばらく話していると、ふと――障子の陰から小さな顔がひょっこりと覗いた。


「ひたち様、いない?」


千代姫だった。

その声は、薄い紙のように頼りなく、寂しさがそのまま形になっている。


松殿はすぐに千代姫を抱きかかえ、


「常陸様はお城に移ったのですよ。大出世です」


「出世? すごいこと?」


「えぇ、とても凄いことです。だから、寂しい顔はおやめなさい」


千代姫は小さく頷き、


「はい、母上様」


その返事があまりに素直で、胸がちくりとした。

子どもは理解できなくても、空気で察する。皆が“遠くへ行った”ことを。


松殿は私に向けて深々と頭を下げると、千代姫を抱いたまま、隣の前田屋敷へ戻っていった。


屋敷に残ったのは、再び静寂。

遠ざかる足音が消えると、私は縁側の板の冷たさを、急に強く感じた。


――この屋敷は、真琴様の“安土での宿舎”として残る。

だからこそ、ここで何かが起これば、黒坂家の名に傷が付く。

そして、留守居役が“慶次”である以上、私は心配をやめられない。


私はそっと息を吐き、庭の影に向かって、誰にも聞こえぬ程度に言った。


「……頼みますよ。見えぬ者たち」


返事はない。

けれど、砂利の上を風が撫でる音が、なぜか“承知した”と答えたように聞こえた。

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