茶々視点外伝 茶々視点・①①⑥話・黒坂軍出立
1584年 秋
暑さが過ぎ、蝉の声が遠のき、代わりに蜻蛉がやけに目につくようになった頃――
真琴様はおよそ三千の兵を率いて、安土城下の黒坂屋敷を出立なされた。
朝靄の残る空気はひんやりとして、鎧の金具が触れ合う音がいっそう澄んで聞こえる。
真新しい具足は漆の匂いさえ新しく、歩調に合わせて鳴る草摺の音が、まるで“これからの黒坂家”を告げる太鼓のようだった。
揃いの甲冑に身を包んだ兵の列は勇ましく、荘厳で――見物に集まった町人たちが、息を呑む気配が背中越しに伝わってくる。
そして、ひときわ異彩を放っていたのは、足軽たちが布に包んだ火縄銃を皆いっせいに担いでいたことだ。
その数――外から見れば、長篠の合戦で義父・織田信長が武田勝頼の大軍に大打撃を与えた時と、ほとんど同じ数に見えるだろう。
今、織田家は毛利・長宗我部を相手に戦の最中だ。
それでもこれだけの火縄銃を用意できる――いや、「用意できたように見える」。
巷はきっと、こう囁くに違いない。
――黒坂常陸守真琴だからこそ。織田家の火縄銃を改造した、あの若い軍師だからこそ。
私は、胸の奥がきゅっとなるのを感じながら、それを眺めていた。
真琴様が望まれたのは、力の誇示ではなく“抑止”だ。
けれど世は、見えるものしか信じない。ならば、見せねばならない。
実際の新式火縄銃は、五百。
布に隠れた残りのほとんどは、竹筒と木板をそれらしく組んだ“それ”だ。持てば軽く、扱えば頼りなく、けれど遠目には立派に火縄銃に見える。
しかも、その“それらしさ”の中には、爆竹――花火の仕掛けまで仕込まれている。
大津城入城の折、空撃ちの音と煙で一斉射撃を演じ、誰の目にも「揃えてある」と思わせるための手立て。
怪しまれぬよう、下準備は徹底されていた。
各地に散った黒坂家の忍びが町人に化け、今井宗久が大量の火縄銃を手配した――と噂を流す。
さらに、比叡山の監視役として信長公が黒坂家を重んじ、特別に整えさせたのだ、と“もっともらしい尾ひれ”まで付け加えて。
そして、琵琶湖を行き来する安宅船。
あれもまた、黒く塗られていた。塗りたての黒は陽に鈍く光り、遠目には鉄貼りの船のように見える。――毛利水軍を一掃した船のように鉄貼りにした、という噂まで、きっと人の口は勝手に作り上げるだろう。
私でさえ、桟橋に近づくと塗料の匂いが鼻を突き、思わず眉をひそめたほどだ。……真琴様の策は、匂いまでそれらしい。
その安宅船が、安土城の琵琶湖桟橋に静かに止まっている。
「茶々。では私たちは、かねてより決めていたとおり先に行きますが……大丈夫ですね?」
母上様が私の手を取り、確かめるように言われた。
母・お市、そして妹のお初、お江は、安宅船で大津城へ入る。私は数日遅れで、“織田信長の姫”としての入城を控えている。
「母上様。私も数日したら入城の手はず。ご心配なきよう」
そう答えながらも、心のどこかが落ち着かない。
黒坂家の屋敷に一人残るわけではない。柳生と真田の忍びも多く残り、手配は整っている。それでも――母上様の指が、私の手を離すのをためらうように少しだけ強くなるのを感じた。
「なにか急な困り事が出たら、前田松に申しつけなさい。前田家には、屋敷にいつもより詰めている者を多くするよう命じてあります」
「大丈夫です。柳生と真田の忍びが、まだ多く残っていますから」
口ではそう言ったが、母上様は小さく息を吐き、
「忍びは……見えませんから……」
と、まるで独り言のようにこぼされた。
その言葉が、胸に残る。見えない者の力を知りながら、母は“見えない”からこそ怖いのだ。
やがて、母上様たちは船へと乗り込まれた。
お江は乗った途端、堪えきれないほど無邪気に、大きく手を振り始める。桟橋の端で私が手を上げると、それが余計に楽しかったのか、ますますぶんぶん振る。――この子の元気だけは、どんな策よりも心強い灯りになる。
私は、その姿を胸に焼き付けた。
見送った安宅船。




