茶々視点外伝 茶々視点・①①④話・黒坂家の米事情
真琴様は翌日の昼過ぎに安土へ戻ってこられ、まずは風呂で船旅の疲れを流された。
濡れた髪を拭う間も惜しいという様子で廊下を抜けていかれる背に、私は一瞬だけ安堵する
。――無事に帰ってきた。その事実だけで胸が軽くなるのに、すぐ次の責務が肩へ乗る。
私はその間も、馬揃えの仕度を桜子たちに指示していた。
帳面を広げ、墨を含ませ、届いているはずの物資と、届いていなければならぬ物資の名を心の中で反芻する。
馬の数、人の数、槍の数――そして腹の数。
「安土から大津まで、兵の食事を用意させねばなりません。おおよそ三千人分」
口にして改めて数字の重さが胸に落ちる。
三千――食器の数ではない。腹を空かせる者の数だ。
腹を空かせた武者は苛立つ。苛立ちは乱れを呼び、乱れは“威厳”を削る。
大名の行列が腹の音を鳴らしながら進むなど、笑い話にもならない。
「御方様……途方のない数にございます」
桜子が、顔をしかめるでもなく、それでも静かに息を呑む。梅子は思わず肩を落とし、呻くように続けた。
「御方様、大変なのです~……」
「それでも仕度をいたさねばなりません」
私が言い切ると、桜子たちは小さく「はっ」と返し、帳面の端に目を走らせる。
私はすぐに段取りを刻む。
「人は前田家、佐々家、森家が出します。あなたたちは塩、味噌が滞りなく各休息地に届いているか――家臣たちからの知らせと帳面を突き合わせなさい。届いた“つもり”がいちばん危ないのです」
「はい……」
返事の声は揃っているのに、背中に疲れが滲む。
それでも、やらねばならぬ。
この屋敷で誰かが弱音を吐けるのは、吐いた次の瞬間に手を動かす者だけだ。
そこへ、湯から上がった真琴様が戻ってきた。
頬がほんのり赤く、湯気をまとった髪からまだ水気が落ちている。
湯の匂いと、薬湯の陳皮の残り香が、部屋の空気をふっと柔らげた。
「引っ越しの仕度?」
真琴様は、帳面と私たちの顔を交互に見て言う。
私は、その“軽さ”に苛立つ寸前で飲み込み、わざと穏やかに返す。
「引っ越しの行列は馬揃えを兼ねております。ですから十分な仕度が必要です。黒坂家の家臣が道すがら腹を空かせた姿など見せれば、笑い者になりますからね」
「……金なら蔵にあるんでしょ?」
その言い方が、あまりにも真琴様らしい。
“ある”か“ない”かを答えれば済むと思っている顔。
私は思わず額の奥がきりりと痛み、口調が乱れぬよう舌先で整える。
「金は食えませんよ、真琴様。――その金で米だけでなく、塩、味噌を手配しているのです。……それに、どうして黒坂家の蔵は米がこんなに少ないのだか……」
言いながら、自分でも分かっている。責めても仕方がない。
だが、“米蔵が薄い”という事実は、薄いままでは済まないのだ。
「え~、だって信長様から俺は現金で雇われているから」
「年貢は一切ないのですか?」
自分でも驚くほど、声音が固くなる。
政の帳面は幾つも見た。
だが、年貢の帳面が無い屋敷など、私の常識の外だ。
「ないよ。全部現金」
「……はぁ……道理で年貢の帳面が見当たらないのですね」
息が漏れる。半ば呆れ、半ば感心。
天候に左右されぬ現金収入――強い。強いが、米蔵が薄いという別の弱さを抱える。まるで片刃の刀だ。
「年貢は天候に左右されるから、領地でも出来る限り現金で税を納めてもらうつもりだよ」
「……それで貨幣改革を進めているのですか」
「うん」
短い返事の軽さに、私はまた頭痛を覚えた。
理屈は分かる。未来の世なら当たり前なのだろう。
だが、この世は“米が腹を満たす”世だ。銭が腹を満たす世ではない。
民も武士も、まずは米で動く。
「……これも慣れねばならぬのですね……はぁ……。――って、大津城の米蔵、空ですか?」
私は気づいてしまった。
引っ越し先の蔵が空なら、馬揃えの“次の日”から困る。威厳は一日にして崩れる。
「おそらく」
真琴様は悪びれもせず言う。
私は目の奥がくらりとし、思わず帳面の端を押さえた。
「蒲生氏郷に命じて米を蓄えさせねば……。……はぁ……米相場が一気に跳ね上がりそう」
心の中で米俵が雪崩れる映像が浮かぶ。
近江一帯の市がざわめき、商人が目の色を変え、民の顔から笑みが消える――そんな光景は見たくない。
だが真琴様は、こちらの不安を押し戻すように、意外なほど真面目な目をして言った。
「茶々、だからこそ琵琶湖の流通網を生かすときなんだよ。ここらだけで買いあさるから値が変動する。だけど奥州なんかで買わせて運ばせれば、変動は少ない」
「まだまだ途中の流通網です。あてにはできません」
反射的に口が出る。私は慎重だ。慎重でなければ、守れないものが多すぎる。
「もう、茶々は“無理”と決めつけないの。こういうときに慶次を活用するの。慶次は町の荒くれ共をまとめて荷運びとして雇い入れてるんだから……。すでにその一部を奥州に仕入れに向かわせてるし」
その言葉に、私は帳面を見下ろす。
――そうだ。この帳面に合わない金子。理由を問おうと喉まで出かかったのを、私は飲み込んでいた。
「……この帳面に合わない金子は、仕入れのための物でしたか」
「流石に金を持たせてるのは慶次の直属の家臣だけど、彼らを信じて。しばらくすれば、大津の米蔵は一杯になるから」
“信じて”と言われると、胸が少しだけ痛む。
私はいつも、先に疑う。疑うことで守る。守るために疑う。
けれど真琴様は、信じて動かす人だ。
人を物のように扱うことを嫌い、だからこそ人を“働く歯車”としてでなく“意思を持つ者”として扱う。
慶次ですら、あの自由人が、真琴様のために手を動かす理由がある。
「……真琴様がそう言うなら……」
私はそれ以上言うのを我慢した。帳面の上に置いた指先が、ほんの少しだけ緩む。
不安は消えない。
だが、真琴様の言葉には、根拠がある。
根拠の匂いがする。私はそれを嗅ぎ分けられるほど、この屋敷で学んできた。
――そして実際。
あちらこちらで買い集められた米が、北国街道を経由し、さらに琵琶湖の船便で次々と大津へ運び込まれた。
気づけば半年も経たぬうちに、蔵に入りきらぬほどの俵が積み上がる。
それでも近江の米相場が急騰することはなかった。
(……この人は、いつも“先”を見ている)
私は、帳面を閉じる音を小さくしながら、胸の内でそう結んだ。
そして次の頁の準備を始める。
馬揃えは、まだ始まってすらいないのだから。




