茶々視点外伝 茶々視点・①①③話・黒坂家屋敷留守の夜
「御方様、失礼いたします。行灯に火を――」
帳面に目を落としていた私の視界の端で、桜子がそっと膝をついた。
夕刻の薄闇が障子越しに滲み、紙の白さが灰色に溶け始めている。
気づけば筆先の墨も乾きかけ、指先が少し冷えていた。
「……もう、このような時間ですか」
私は筆を置き、肩を軽く回す。
真琴様に代わって、具足、旗、わらじ、火薬、武具――大津城入りの“馬揃い”に要る品々の代金を、ひとつずつ帳面にまとめていた。額の大小よりも、抜けがないかが怖い。
ひと品漏らせば、当日、列が乱れる。
列が乱れれば、威厳が削がれる。威厳が削がれれば――この世は容赦なく牙を剥く。
桜子が行灯に火を移すと、ぱち、と小さな音を立てて明かりが咲いた。
途端に部屋の輪郭が浮き、帳面の文字が生き返る。
私はその光を見ながら、胸の奥に小さな焦りと、同じくらいの責任を感じた。
「御方様、今宵はこちらで?」
「ええ。真琴様が戻られるまで、この屋敷で寝泊まりするつもりです。よろしくね」
「では、夕餉はこちらに?」
「いえ。皆と共に取ります。できたら食事の間へ。真琴様が決められているように、食事は“皆と”よ」
私がそう言うと、桜子は小さくうなずき、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
――真琴様の決めた“いつも”は、この屋敷の芯だ。
主が留守でも崩してはならない。崩せば、どこからでも綻ぶ。
「……御主人様からは、もしかしたら泊まりになるかもと伺っております。ですが“変わらぬ暮らしをするように”と命じられておりますので、風呂も焚いております。いかがなさいますか?」
黒坂家では毎日、風呂が焚かれる。
真琴様が一番風呂を済ませると、桜子三姉妹、その下の侍女、そして夜に詰める家臣も入る。
清潔にすること、体を温めること――それがこの屋敷の法度になっている。
最初は奇妙に思ったが、戦国の冷えは骨に刺さる。風邪ひとつが命取りにもなるのだ。
「真琴様の命に従い、いつものようにいたしなさい」
そう告げた瞬間、桜子の表情がほんの僅か、困ったように揺れた。
「そうなりますと……御方様が一番風呂を入っていただかないと……」
「あぁ、他の者が入れないのね。なら、湯が沸いたら教えなさい。私は黒坂の家に入った身。真琴様が定めた生活様式は守ります」
「はっ。今しばらくお待ちを」
程なくして梅子が「湯の支度が整いました」と知らせに来た。
私は湯殿へ向かい、湯で体を流す。
外では桃子が窯の火を見張り、警護には柳生のくノ一たちが侍女姿で長刀を持ち、静かに行き来している。何気ない日常の顔をしながら、視線の鋭さだけは隠しきれていない。
「御方様、湯加減どうですか?」
壁一枚隔てると、桃子の声から緊張が抜け、普段の調子に戻る。
「ちょうどいいわよ」
「お好みで、端にある薬湯の粉をお入れください」
真琴様が今井屋に申し付けて作らせた薬湯――くず粉に陳皮などを混ぜ、体を芯から温める品だ。
黒坂家の財力がなければ、毎日の風呂にこんな贅沢は出来ぬ。
私はひと掬い入れ、湯に溶かす。ふわり、と陳皮の香りが立ち、湯気の向こうで一瞬だけ心がほどけた。
(……真琴様がいないのに、私まで気が緩めてどうする)
そう叱っても、湯の温もりはじんわりと肩の力を抜いていく。
体が十分に温まったところで上がると、侍女が手早く体を拭いてくれた。
着替えを整え、居室へ戻ろうとすると桜子が「夕餉の支度が整いました」と知らせてくる。
私は食事の間へ移り、桜子三姉妹と共に膳をいただいた。
この日は鶉の丸焼きと、鮒を煮詰めたもの。
湯気は控えめだが、香りは確かで、腹の底がほっとする。
「鶏と豚は、もう大津へ移しましたので……安土の町で仕入れた品でございます」
桜子がどこか申し訳なさそうに言う。
黒坂家と言えば料理で名が通っている。その“名”に引っ張られて、桜子はいつも以上に気を回してしまうのだろう。だが、これでも十分に豪勢だ。戦場の飯を思えば、贅沢すぎるほどに。
「分かっているから、気にしなくていいのよ」
そう返すと、桜子はようやく肩を落とした。
――と、その時。
「おっ、やってるね~。良い匂いがする――って、げっ! 御方様、失礼しました!」
襖が勢いよく開き、前田慶次が顔を出した。
声の大きさが、夜の静けさに刺さる。
「慶次、騒がしいですよ」
「申し訳ない……今夜は大将が遅くなるって聞いたから来たが、御方様がいるなら俺は必要ないか」
「“必要ないか”ではありません。ちゃんと屋敷の警護をし、真琴様が家族と呼ぶ三人を守りなさい」
私が言い切ると、慶次は一瞬だけ目を丸くし、それから肩をすくめた。
「御方様、でもよ~。安土城内の屋敷で何が起きるってんよ? 明智の残党の件で大手門の警備は厳重。そうそう夜襲なんて――」
「黒坂真琴を妬む者が、真琴様不在をいいことに不埒なことをするかもしれません」
私が言うと、慶次は鼻で笑いかけて、途中で真面目な顔に戻った。
「……もうそれはねぇと思うぜ。うちの大将、名実ともに上様の婿だ。喧嘩売ったらどうなるか、巷は分かってる。おまけに“上様の忍び頭”って噂まで回って、黒坂家を怖がってる」
「……真琴様が指名した者が、皆忍びのように働くなど、私も思いもしませんでした」
「若いのは町に忍ばせて、声を拾ってる。だから今宵だって、なんにも起きねぇ」
「それでもです。大将の留守の時くらい、屋敷でどんと構えていなさい」
慶次は少しだけ口を尖らせ、最後には観念したように笑った。
「御方様に命じられちゃ、仕方ねぇか……」
そう言い残して、前田慶次はあてがわれている部屋へ向かい――今度は驚くほど大人しく、一人酒を楽しんでいた。
(……最初から、その静けさで来なさい)
私は心の中でため息をつきつつ、行灯の火を見つめ直した。
今夜は“何も起きない”かもしれない。だが、“何も起きない”夜を作るのが、私の役目なのだ。




