茶々視点外伝 茶々視点・①⓪②話・雄琴温泉⑦
朝餉を終えた真琴様が、湯呑を置いて森力丸にお尋ねになる。
「今日の琵琶湖の風は?」
まだ湯気の立つ味噌汁の香りと、畳に落ちる柔らかな朝日。
障子の向こうで湯屋の桶が触れ合う軽い音がした。
力丸はすでに船頭へあたっていたらしく、膝をついて答える。
「昨日よりは落ち着きましたが北向きの風。櫂で進むことは叶いましょう。しかし今から出ても、安土着は日暮れぎりぎり、あるいは……」
私は突っ込んで確かめる。
「つまり、無理は避けよと?」
「はっ。急ぎでなければ本日は見合わせが良策と。……御大将が船酔いにお弱いこと、船頭ども気に病んでおりまして、たいそう申し訳なさそうに申しておりました」
「え? 風と波のせいでしょ。船頭が謝ることじゃないよ」
真琴様は、いつもの調子であっけらかん。そこで私は、主としての“ひと言”を添える。
「――真琴様は本日、湯治といたします。この宿にもう一泊。船の者には酒と肴を。働いた身をねぎらうのも主の務めにございます」
「はっ、かしこまりました!」
力丸は軽やかに立ち、宿と船方へ伝えに走った。
廊下の先で草履がコツコツと鳴り、すぐに忙しない足音が返ってくる。
真琴様は肩をぐっと回し、気の抜けた兵のようにごろんと背へ倒れる。
「はははっ、茶々がいて助かった。酒と肴、すっかり抜けてたよ」
「少しはお心配りを覚えてくださいませ」
「はい……でも、これで今日は温泉でのんびりできる~」
子どもみたいに伸びをしたところへ、襖がぴょこんと開いて――
「マコ~、今日も泊まり?」
お江が遠慮という言葉を忘れた勢いで飛び込んできて、そのまま背中に抱きつく。
温い綿入れのにおいと一緒に、部屋の空気が一段明るくなる。
遅れて入ってきたお初は、まだ寝起きの目で私たちを見て、つんとした声を落とした。
「あんたにしては珍しい休みね」
「たまにはね。今日はゆっくり湯に浸かって――あ、そうそう。ここの湯、アルカリ性で肌艶がよくなるんだ。雄琴温泉は“美人の湯”って言われてたはず」
さらりと崩落玉を投げるあたり、さすが我が夫である。
“美人”の二字に、お初の耳がぴくり。私は見逃さない。
「……あんたねぇ、そういうことは先に言いなさいよ」
つぶやくより早く、はためく袖。お初は踵を返し、廊下をすたすた――たぶん浴場へ一直線。
私は真琴様と目を合わせ、思わず同時に苦笑した。
「お初が気にするとは思わなかったな」
「お初も女ですから」
そう言って、私は茶托を整え、濃すぎない煎茶を差し出す。湯呑の向こうで、真琴様のまぶたが少しゆるんだ。
廊下の向こうでは、力丸が船方に声を掛けている。
「本日は逗留、よって働きの労に酒と肴。粗相なく届けよ」
「へぇい!」
返事の重なりに混じって、宿の帳場からも威勢のよい応えが返る。こういうとき、家中の歯車が一斉に嚙み合う音は、聞いていて心地よい。
私は湯呑を両手で包みながら、そっと言葉を添えた。
「真琴様。休むときに休む――それもまた、上に立つ者の務めです。湯も、家臣も、船頭も。温めるほどに、よく働いてくれますから」
「……うん。茶々が言うと、ちゃんと胸に入るな」
「でしょう?」
ふっと笑って、私は襖の外に声をかける。
「桜子、湯上がり用の梅酢を薄めて。お江の分は……少し甘めで」
「はい、御方様」
湯気のようにやわらかな午前の光が差し、琵琶湖のきらめきが障子の端で揺れた。
今日の安土行きは見合わせ。代わりに“英気”をたっぷり仕込む一日。
美人の湯と、主の器――どちらも、湯加減が大事である。




