茶々視点外伝 茶々視点・⑨⑤話・緊急避難雄琴温泉
安宅船を雄琴の湯の近くに止める。湖面は鉛色、北風が帆を噛み、舷に白いさざめきが絶えない。
号令一下、火縄銃を肩付けた兵が三十、甲板縁に横一列、焔の種は火桶で温められ、いつでも火蓋を切れる態勢。
さらに弓兵三十が弦を張り、息まで揃えて陸を見据える。
桟橋へは柳生宗矩配下が素早く躍り出て、槍を地に突き、半身になって警戒の陣を敷いた。
冬の空気がぴんと張り詰め、温泉の匂い――あぁ、確かに湯の気配。
「真琴様は、まだお出にならないでください」
私は袖を正し、まずは船腹の内に留まるよう促す。
桶を抱えていた顔色も、ようやく白から薄桃に戻りつつあるが、無理は禁物だ。
「御大将、雄琴温泉の湯元と話をつけて参ります」
森力丸が短く告げる。私は真琴様に代わり頷き、言葉を添えた。
「気を付けて行ってきなさい」
力丸の背が、風に押される湯気の向こうへ消える。お江ですら口を結んで身構え、桜子は火桶を抱えて私のそばに控えた。
甲板の板目を叩く靴音と、火縄のほの暗い赤――緊張の色は、どれも静かで美しい。
ほどなく、力丸が戻る。
「御大将、雄琴温泉・湯元より、宿を提供くださる由」
「護衛の配置は?」
「宗矩殿がすでに手配済みにございます」
「ならば良い。――真琴様、身なりを整えましょう。桜子、もう一度お顔をきれいに」
「はい」
私は真琴様の肩にそっと手を添え、立ち上がりを助ける。
桜子が濡れ布巾で口元を拭い、前髪を指先で整える。
梅子が帯を締め直し、桃子が太刀を差し出す。
こういう段取りだけは、すっかり黒坂家の“戦支度”になじんでしまった私である。
……本音を言えば、いま一番湯に飛び込みたいのは私だが、正室の役目は湯より先に“面子”。
「雄琴の者どもが桟橋に出迎えております。少しの間、気丈に。――ここは真琴様の領地でございます」
「う……きついが、仕方ない。幸村、茶々たちの護衛を頼む。俺は先に出た宗矩に声をかけ、えらそうにする」
「はっ」
真琴様は小さく笑ってみせ、足元を確かめながら桟橋へ。
宗矩が半歩先に立ち、襟元に風を防ぐよう掌を添えた。
「御大将、雄琴温泉湯元頭、雄琴屋・長兵衛にございます」
湯気の幕の向こう、年の頃五十前後か、湯の蒸気で顔を上気させた男が深々と頭を垂れる。
背後には湯番や若い衆、肩に湯籠を抱えた娘まで並び、皆、雪解け水のように澄んだ目でこちらを見ている。
「出迎え、大義。黒坂常陸である。琵琶湖が荒れているゆえ、しばし逗留いたす。よろしく頼む」
真琴様、声だけは見事に澄んでいる。
揺れが残る足取りを、私は袖の内でそっと支えた。
「新しき領主様をお迎えできまする喜び、この上なきこと。どうぞごゆるりと、湯でお疲れをお癒しくだされ」
長兵衛の言葉に、背後の者たちが一斉に頭を下げる。湯の香と、板の間の湿り気がふうっと頬を撫で、私ははじめて胸の奥の張りを少し緩めた。
私も桟橋へ降り立つ。板が冷たい。
裾を払う間もなく、真田幸村が一歩前に出て、低く通る声で告げた。
「織田家の姫君方であられる。無礼な挙動のなきよう、肝に銘じよ」
「ははっ」
長兵衛が額を砂にすりつけんばかりに平伏し、後ろの若い衆まで背筋を伸ばす。
さきほどまでの緊張が、秩序ある静けさに変わったのがわかる。
……さすがは幸村、こういう一言は実に効く。
「それでは参りましょう。――お江、走らない」
「えっ、もう走ってないよぉ。心は小走りだけど」
「その心を、足から切り離しなさい」
お初が小さく吹き出し、私もつられて笑う。
笑いは、湯気より速く周りの空気をやわらげる。




