茶々視点外伝 茶々視点・⑨④話・荒れる琵琶湖
「う〜……揺れる……気持ち悪い……」
酔い止めの丸薬を飲ませたはずの真琴様が、またもや桶を抱えて青い顔をしている。甲板を叩く風は冬の刃、安宅船の舷がきしむたび、船底からごうっと腹に響いた。
「確かに今日は揺れが強いですね。――力丸、船頭に、あとどれほどかかるか確かめてきてください」
「はっ」
私は真琴様の背を掌でゆっくりさすり、桜子は濡らした手拭いで口元をやさしく拭う。
梅子と桃子は湯に梅干を溶き、香りだけでも胃の腑が落ち着くよう差し出した。
ひと息つく間もなく、船はまた大きく横っちょへ身をよじる。
「お、おろろろろ……」
丸薬も荒天には敵わぬか。
私は桶の替えを桜子に目で合図する。
戻ってきた森力丸が、困り顔で報告した。
「御大将、御方様。船頭が申すには、逆風つよく帆が張れませぬ。櫂を出しても流されるばかりにて……。ここは“ちょうど”錨の利く所、風の機嫌が変わるまで留まるか、あるいは風に乗って停泊できる地へ――との由。いまの風向きでは、比叡山の裾、元・明智領の雄琴あたりがよろしかろうと……いかがいたしますか」
「おろろ……」
返事のかわりに、また吐き戻される真琴様。
背に触れる体温が冷えていくのが怖い。私は即断した。
「力丸、真琴様の体力が持ちません。――雄琴へ向かいます。乗り組む兵は甲冑を身に着けさせなさい、戦仕度。火縄に火を。宗矩、配下へ伝令を」
「はっ」
「かしこまりました」
柳生宗矩の声が短く鋭く散り、裏柳生のくノ一たちが音もなく走る。
甲板の陰で火打石が鳴り、火桶の赤が生まれた。吹きすさぶ風に火の粉が流れ、私は思わず袖で囲って守る。
「茶々……ごめん、せっかくの船出なのに……」
真琴様が私の膝に額を預け、弱々しく笑う。私はその額に手を添えて、静かに言った。
「謝ることではありません。湖は女心より気まぐれ――と、安土の婆やが言っていました。今日は湖の機嫌が悪いだけ。私が機嫌を取ります」
「……茶々が機嫌を取れるなら、琵琶湖も安心だ」
そんな冗談を言えるなら、まだ大丈夫。私は小さく笑ってみせ、衣の袖でそっと汗を拭う。
船は帆を半ば畳み、風を“受け流す”ように身をもたせ、坂本の方角へと滑っていく。舷側に砕ける波が白く跳ね、しぶきが頬を刺した。遠く、比叡の影が鉛色の空を割って立つ。焼け落ちた坂本城の痕跡は、なお黒く冬枯れの葦の向こうに口を開けている――あの地は、まだ物の怪の息を吐いているように見えた。




