腐敗した協会の病巣東声会(のちの東亜会)会長町井久之 本名鄭 建永(チョン・ゴニョン、정건영)「写真」
1976年10月12日(火曜日)に何故これ程大場政夫のキャリアを揺るがしかねない程のマッチメイクが決まったのかというと裏でヤクザである東声会(のちの東亜会)会長町井久之本名鄭 建永(チョン・ゴニョン、정건영)が糸を引いていたからである。このビッグマッチを仕組んだのはヤクザだった。だがビッグマッチで大場政夫は勝てたもののその代償は高くつく事になる。
1976年10月13日(水曜日)帝拳ジムに一本の電話が掛かってきた。
プルルルルルルル!プルルルルルルル!ガチャ!
「はい、こちら帝拳ジムです。ご用件は何でしょうか?」
「俺は東声会会長町井久之だ。今回勝たせてやったのは俺様のお陰だ。そこで貴様らは俺に借りが出来た。次の試合大場政夫はジュニアフェザー級の廉東旭選手に負けて貰いたい。」
その電話は東声会会長町井久之が韓国人贔屓の為に八百長を仕組む魂胆だ。
「うちはクリーンなボクシングを売りにしています。そんな八百長紛いの事出来る訳ないじゃないですか!」
「誰のお蔭で大場政夫VSロイヤル小林のビックマッチが決まったと思っている?俺達東声会が幅利かせてやったお陰だろうがッ!」
「そんな事したら政夫君に失礼ですよ!」
桑田勲氏は心を込めてそう言った。
「それがどうした?八百長なんてボクシング業界なら当たり前だろうが!」
※ボクシング業界は1920年代から八百長がありました。
1. 黎明期(1920年代〜昭和初期)の「見世物」興行
日本のプロボクシングが始まった大正から昭和初期にかけて、ボクシングは純粋なスポーツというよりも、サーカスやプロレスのような「見世物」としての側面が強いものでした。
内容: 当時は「柔拳」と呼ばれる、柔道家とボクサーが戦う異種格闘技戦が人気でしたが、これらは興行としての面白さを優先し、勝敗があらかじめ決まっている「アングル(台本)」に近いものが多かったと言われています。
背景: 日本ボクシングの父と呼ばれる渡辺勇次郎が1921年にジムを設立する以前の「ドサ回り」の興行では、観客を喜ばせるための演出としての「八百長」が常態化していたと考えられています。
2. 暴力団の介入(戦後〜1950年代)
戦後の混乱期、ボクシング興行は暴力団が仕切ることが多く、ギャンブル目的やメンツのために勝敗が操作されることがありました。
エピソード: 1950年代の記録や元ボクサーの証言では、試合前に「負けるように」と脅されたり、買収されたりするケースが散見されます。
しかし、これらは当時は「裏社会の常識」として処理されており、 ニュースとして大々的に「八百長事件」と報じられることは稀でした。
3. 歴史的に有名な「疑惑」の事件
現代のファンやメディアが「ボクシング界の黒歴史」として挙げる、初期の具体的な疑惑には以下のようなものがあります。
毒入りオレンジ事件(1952年):
厳密には「勝敗の操作」というより「妨害工作」ですが、日本初の世界王者・白井義男とダド・マリノの試合で、マリノ側に毒(下剤)入りのオレンジが渡されたという疑惑です。これが日本初の「世界規模のスキャンダル」として記憶されています。
コング斉藤事件(1975年):
「日本ボクシング界最大のミステリー」とも呼ばれます。デビュー以来不自然なKO勝ちを連発していたコング斉藤というボクサーが、1975年の凱旋試合で「パンチが当たっていないのに相手が倒れる」というあからさまな試合(いわゆる空振りKO)を行い、専門誌やファンから猛烈な批判を浴びました。これが、JBC(日本ボクシングコミッション)体制下で、最も「八百長」に近い形で公然と批判された初期の代表例です。
結論
いつか?: 記録に残らないレベルの「見世物としての八百長」は、日本にボクシングが伝わった明治・大正時代(1900年代〜1920年代)から存在していました。
具体的な事件として: 多くの専門家やファンが「八百長(不透明な試合)」を強く意識し始めたのは、1970年代(コング斉藤のケースなど)、あるいは判定への疑念が深まった2000年代以降(亀田興毅のランダエタ戦など)の出来事であることが多いです。「公式な第一号」という答えがないのは、ボクシングが「真剣勝負」として完全に確立される前の時代に、すでに興行的な八百長が組み込まれていたためだと言えます。
「それはその通りなのだが....ワシは政夫君の心を傷つけたくないんじゃ....だからその提案は看過出来ない....」
桑田勲氏は不安そうに答えた。
「分かってだろうなッ!そっちがその気なら拳銃で大場政夫をぶち殺してもいいんだぞ!」
「ヒィイイイイイイイイ!それだけはご勘弁をッ!」
「コルト・ポケット・ハンマーレス(M1903)で撃ち殺されたいか?それともFN ブローニングM1910で撃ち殺されたいか?」
「(胃に穴が開きそうだ!)勘弁してくださいよ!」
桑田勲氏は恐怖していた。
※実際に東声会は拳銃を所持していました。東声会(現・東亜会)は、銀座を拠点とした「町井一家」を母体とする組織であり、その武装については当時の他の暴力団とは一線を画す「銀座流」とも言える特徴がありました。特に創設者の町井久次氏や、その側近であった百瀬博教氏らのエピソードから、いくつかの具体的な銃器の名前が浮上します。
1. 百瀬博教氏と密輸銃
東声会の用心棒的存在であり、のちに作家となった百瀬博教氏が所持・密輸したとされる銃は、当時の組織の武装を知る貴重な資料です。コルト 38口径 自動拳銃: おそらくコルト・ポケット・ハンマーレス(M1903)などのコンパクトなモデルです。ブローニング 38口径は当時、ヤクザの間で「ブローニング」と言えばFN M1910が定番でしたが、百瀬氏は海外からの密輸ルートも持っていました。ラマ(Llama) 22口径はスペイン製の小型拳銃で銀色で装飾が施された「貴婦人用」のような美術品に近い銃も所持していたとされています。
2. 抗争と日常的な武装
1960年代の「虎ノ門事件(山口組との対立)」などの抗争時、東声会が手にしていたのは以下のような銃器が一般的でした。コルト・ガバメント(M1911A1)は米軍放出品が多く出回っており、威力重視の組員が好んで使用しました。S&W M36(チーフス・スペシャル)は護身・隠匿性に優れるため、幹部クラスが持ち歩くのに重宝されました。日本刀は銃器ではありませんが、東声会は銀座の「用心棒」としてのルーツが強く、白兵戦用の日本刀も重要な武器として常備されていました。
3. 東声会ならではの特徴
東声会は米軍キャンプや韓国政府(KCIA等)との独自のパイプを持っていたため、当時の一般的なヤクザが使用していた「密造銃(ひさく銃)」よりも、性能の良い米軍製や欧州製の「本物の銃」を揃えていたと言われています。
M1カービン: 1960年代の緊迫した場面(右翼活動や大規模抗争の予兆時など)において、長物(小銃)の存在が噂されることもありました。これは町井氏が「東洋のコンシエーレ」的な立場であったことも関係しています。
「大場政夫の様なスターを倒せば韓国人の箔がつくというものだッ!まぁ死にたくなかったら大人しく八百長を受け入れるんだなッ!」
ガチャン!
東声会(のちの東亜会)会長町井久之の無慈悲な一言により黒電話から声は途切れた。桑田勲氏は慌ててその事を大場政夫に伝えた。
「なんかヤクザが次の試合八百長してわざと政夫君が負けろって言っていたよ。そうしないと殺すって.....」
大場政夫はあまりの急展開にフリーズした。




