ガレスとの別れ
翌朝、エリスは自分の身体に異変を感じて目を覚ました。
昨日まで全身を覆っていた倦怠感と痛みが、ほとんど消え去っている。
まるで先日の出来事が嘘のように、身体は軽やかになっていた。
(……やはり、以前と比べ、明らかに反動による痛みが弱まってきています)
エリスは自分の掌を開いたり閉じたりしながら、首を傾げる。
以前までは魔王の力を付与後、数日間はまともに動けなかった。
しかし今は、翌日には回復するようになっている。
《……どうやら、お前の身体にまた変化が起きているようだ》
魔王の声が、心の中に響く。
その口調には、珍しく困惑の色が混じっていた。
(変化……ですか?)
《ああ。魔王の力を何度も使用した副作用か、あるいは……お前自身の魂が何かを求めている結果か。いずれにせよ、以前とは違う力がお前の中で芽生えつつあるのは確かだ》
エリスはしばらく黙り込み、自分の内側に流れる何かを感じ取ろうとした。
確かに、以前はなかった感覚がある。
それは温かくて、でも少しだけ奇妙で――。
「なんだ、起きたのか」
部屋の扉が開き、ガレスが入ってきた。
その手には、湯気の立つスープの入った器が握られている。
「あ、おはようございます、ガレスさん」
「……もう立てるのか?」
ガレスはエリスがベッドで起き上がっているのを見て、目を疑った。
昨日のあの状態から一夜でこれほど回復するとは、到底信じられなかった。
「はい、おかげさまで。もう大丈夫そうです」
「馬鹿言え。あれだけ無理をしたんだ。今日は一日中、寝て過ごせ」
ガレスはスープを枕元に置き、エリスの肩を抑えて再びベッドに寝かせようとする。
その手つきは乱暴に見えて、驚くほど繊細だった。
「で、でも……」
「いいから寝てくれ。お前を護るって決めた以上、お前の健康管理も俺の役目だ」
その言葉には、騎士だった頃の面影があった。
エリスは少し驚きつつも、その言葉に従うことにする。
「……わかりました。ありがとうございます」
ガレスは満足げに頷くと、部屋の隅の椅子に腰を下ろした。
「しばらくはここにいてくれ。何かあればすぐに呼べ」
「……はい」
エリスは観念して布団に包まった。
しかしその頭の中は、自分の身体に起きている変化についての考えでいっぱいだった。
◇ ◇ ◇ ◇
さらに翌日になると、エリスは完全に回復した。
自分でも驚くほどの速さであり、あれだけ厳しい痛みを生じていた身体が、嘘のように軽かった。
ガレスも最初は心配していたが、エリスが平然と歩き回る様子を見て、ようやく納得したようだった。
「……本当に大丈夫なのか? 無理はするなよ」
「はい。おかげさまで、どこも悪くありません」
実際痛みはなく、傷跡もない。
むしろそんな状態だからこそ、エリスは自分の身体に何が起きているのかが気になっているくらいだった。
(この回復力……やはり普通ではないですよね)
《ああ。だが、今は気にしても仕方あるまい。今後何か兆しがあれば、嫌でも気にしなければいけないことになる》
(……そうですね)
エリスは深く息を吸い、自分を納得させるように蟠りを吐いた。
その時、ガレスが重い口調で切り出した。
「……エリス。一つ聞いてもいいか」
「はい、何でしょう?」
「昨日の夜にも言っていたが……お前の正体は、誰にも話していないのか?」
エリスは一瞬躊躇したが、やがて静かに頷いた。
「はい。正体を他言しそうにない、信頼できる方々だけが知っています。それ以外の方にとっては、私はただの旅人です」
「そうか」
ガレスは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「ならば、俺もその口にさせてもらう。お前が勇者様であることは、この胸の中だけにしまっておくよ」
「……よろしいのですか? あなたは元王国の騎士です。もし王都にこの情報を伝えればきっと――」
「そんなことをするわけがないだろう」
ガレスはエリスの言葉を遮り、強い口調で言った。
「お前は俺に、生きることを教えてくれた。酒に溺れて自暴自棄になっていた俺に、もう一度立ち上がる勇気を与えてくれた。そんな恩人を、裏切るような真似はしない」
「ガレスさん……」
「それに――」
ガレスは少しだけ口元を緩めた。
「もう二度と、誰かを見捨てるような真似はしたくないんだ」
遠い目をするガレスが想うのは、かつて仲間であり、協力者であった、自分が見捨ててしまった者達。
自分を縛っていた、後悔という名の呪いである。
もう二度と、同じことは繰り返さない。
その言葉には、強固な決意が感じられ、エリスは胸が熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます。あなたのお言葉、一生忘れません」
「大げさだな。すぐに忘れていい」
ガレスは照れくさそうに顔を背けた。
◇ ◇ ◇ ◇
その後、エリスはこの街を発つ準備を始めた。
旅慣れた彼女にとって、必要な荷物はそれほど多くはない。
「もう行くのか?」
「はい。長居は無用ですから。それに……」
エリスは窓の外を見つめ、優しく微笑んだ。
「また、どこかでお会いできるかもしれません。その時は、どうかよろしくお願いします」
エリスは一礼し、部屋を後にしようとする。
しかしその背中をガレスが叫び、止めた。
「エリス!」
エリスがその声に振り向くと、ガレスが寂しげに微笑んでいる。
その目には別れの寂しさと、新たな決意の光が宿っていた。
「――達者でな。そして、無理だけはしないでくれ。本来、お前はもう自由の身なのだから」
ガレスの心配しながらも、エリスの行動を尊重する言葉に、エリスは深く一礼し、部屋を、宿を後にした。
エリスが街の門を出る時に振り返ると、ガレスはまだ宿の前に立ちながら見送りをしていた。
その姿は、もう以前の荒んだ男ではなく、確かに一人の騎士だった。
エリスは軽く手を振り、そして再び歩き出した。
新たな旅路へと続く道を、一歩一歩、強く踏みしめながら。
風が彼女の黒髪を優しく揺らす。
それは、また新たに勇者への後悔を抱くものを癒すことができたことを祝福してくれるような、心地よい風だった。
◇ ◇ ◇ ◇
ガレスはエリスを見送り、宿へ戻る。
そして、己の姿を鏡に映した。
髪は長い間手入れされておらず、長く伸び切っている。
無精髭も濃く、なんとも醜い荒れ果てた姿なのだろう。
「ったく、汚ねえ顔だ。よくもまあこんな姿で表に出られたもんだ」
身だしなみも騎士の嗜みだ。
騎士団に所属している頃から、自分の手入れを怠らないよう言い付けられていたことを思い出す。
そして、洗面所で、手に染み付いたかのような滑らかな動きで手に持つ剃刀を沿わせていく。
続けて短剣で無駄な長さの髪を切り落とし、梳いていく。
そして宿の裏口から飛び出し、誰の目にも映らない速度で付近の小川へと駆け抜けて、全身をくまなく洗い始めた。
今までの汚れと、後悔と、そして愚かな自分の感情を流していくように。
そして現れたのは、先とはまるで違う、清潔感のある男の姿。
鎧や盾を身につければ、王都の騎士と遜色ない姿だろう。
晴れやかな心で天を仰ぎ、そして今はもう側にいない少女に対し、多大な感謝を向けた。
「――エリス、ありがとう。お前のおかげで、また高潔な精神を取り戻すことができた。そして今度こそ、誰かの手を取りこぼさないようにしてみせる」
街に戻り、広場へ行くと、己の姿に信じられないものを見た、と目を見開く人々の姿があった。
清潔感という言葉を知らない男だと思われていたのか、と苦笑し、そして盛大な声で主張した。
「護衛でも、傭兵でも、なんでもいい! 報酬などいらん! ……だから是非、俺に依頼を受けさせて欲しい!」
それは、誰かのために、何かのために自分を消耗していく宣言であった。
その行動は何よりも高潔で、尊いものであり、最も愚かな行いである。
だけど、それで良かったのだ。
それこそが、自分が今ここにいる存在意義そのものなのだから。
だから、後悔はない。
かつて勇者であった一人の少女も、己にそう示してくれたから。
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ここまでここまでお読みいただきありがとうございます、
作者の観葉植物です。
久々の贖罪編でしたが、今回はちょっと変わった方向性として、勇者の力を示すことで、その後悔を晴らすような展開にさせてもらいました。
勇者論でもありましたとおり、エリスの結末は彼女が納得し、上層部としても一番冴えたやり方であった一方、悲しむ者が大勢いたという歪みがあり、その一面が今回の話でした。
次は閑話休題を経て、懐かしい人物との再会を果たします。
お読みいただき、感想やフォロー、いいねや応援等、何かしらの反応をしていただけると励みになります!作者が泣いて喜びます!
今後とも、よろしくお願いします。




