【第三十話:封呪神閑(エターナル・ティアーズ)】
ルクシア学園の午後。
蝉の鳴き声すら届かぬ静寂が、校舎裏の訓練場を包み込んでいた。
夏の陽射しを思わせるまばゆい光が、高く澄んだ空から斜めに差し込んで、石畳に落ちる影の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
その中央に、一人の少年が立っていた。アデル=セリオル。片手剣を背に、制服の袖を捲り、額ににじむ汗も拭わず、静かに呼吸を整えていた。
そして、そのアデルの前に現れたのは――風のように柔らかな気配をまとった男。
長身に銀の鎧をまとい、金色の髪を後ろで束ねたその男の名は、レオン=アークフェルド。
過去に魔王を討ち滅ぼし、人々に“勇者”と呼ばれた伝説の人物であり、今なおその名は広く語り継がれている。
だが、いま彼が纏う空気は、伝説に語られるような激しさとは無縁だった。
その歩みは軽く、柔らかでありながら、踏みしめるごとに周囲の空気がわずかに揺れ、訓練場全体が静かに緊張を帯びていく。
まるで自然に周囲の魔力すら従わせるような、そんな風格があった。
「――じゃあ、始めようか」
レオンが立ち止まり、微笑みと共に言葉を発した瞬間。
その声は落ち着きと威圧感を併せ持ち、まるで心の芯に直接語りかけてくるかのようだった。
アデルは思わず背筋を伸ばし、無意識に喉を鳴らしていた。
「アデル君。君の魔力制御の本質に触れるために……これから、私の魔力を少しだけ君の中に流すよ」
レオンは穏やかに言いながら、右手を胸の前に掲げる。
「怖がらなくていい。ただ、自分の魔力に意識を集中してくれればいい。
君の中にある“核”に、自分で気づけるようにね」
「……はい、わかりました」
アデルは深く頷くと、そっと目を閉じた。
風が静かに吹き抜け、額の髪が揺れる。
胸の奥――中心へと意識を沈めるように、彼はゆっくりと両手を組み、胸元に重ねた。
呼吸を整える。
鼓動の音が、外の世界から自分を引き離していく。
耳に入るのは、自分の心臓の音と、魔力の微かな脈動だけ。
その瞬間だった。
胸の奥が、ほんのりと熱を帯びた。
それは自分自身の魔力とは明らかに異なる――異質な気配。
けれど、不快ではなかった。不穏でも、危険でもない。
(これが……勇者、レオンさんの魔力……?)
アデルは直感的にそう理解した。
その魔力は澄んでいて、柔らかく、それでいて底知れぬ力を内包していた。
まるで静かな湖面の下に眠る竜のように、表面には波ひとつないのに、内には絶えず燃え続ける意思が感じられた。
その魔力が、アデルの内側にするりと入り込む。
強引に押し入ってくるわけではない。
あくまで“案内役”として、彼の中にある何かを探り当てるように、優しく導いてくる。
アデルの意識は、それに従うように、静かに沈み込んでいく。
暗闇。
無音。
深く、深く、心の奥底へと――
(これは……)
まるで水の底に沈んでいくような感覚。
だが、それは怖くなかった。むしろ懐かしさすら感じる、不思議な静けさに満ちていた。
やがて、そこに――
かすかな光と、影のような揺らぎが見え始める。
それは、まるで呼吸するかのように、ゆっくりと脈動していた。
アデルの心が、そこへ向かって引き寄せられていく。
(あれが……俺の……)
まだ見ぬ自分の“核心”が、すぐそこにある――。
アデルの意識は、静かに、確かに、“核”へと導かれていくのだった。
◇
気づけば、そこは言葉では形容しがたい異空間だった。
境界の感覚が失われ、地と空の区別もない。ただ、広がっているのは“白”と“黒”――相反する色彩が静かに溶け合いながら渦を巻く、重く、どこか安らぎをも感じさせる世界。
耳を澄ませても風はなく、足元を見ても何もない。だが不思議と、恐怖はなかった。
「……ここは……?」
アデルは呟きながら、あたりを見渡す。
だが空間に明確な形はない。ただ自分が“ここにいる”という実感だけが、はっきりと胸にあった。
やがて、その中心――彼の目の前に、ふわりと浮かぶ二つの球体が現れる。
一つは透き通るような白光に包まれ、内からは温もりを感じさせるような脈動が。
もう一つは漆黒。深い闇を思わせるその核の中心には、わずかに紅が差し、まるで鼓動のように静かに波打っていた。
(……あれが……俺の魔導核……?)
その場にいるのは間違いなく自分自身であるのに、どこか他人事のように感じられる。
目の前の光と闇、それぞれが己の内にある魔力の“核”だと、直感で理解できた。
その時、どこからかレオンの声が響く。直接語りかけてくるというより、思念が流れ込んでくるような感覚だった。
『君が今見ているのは、君自身の魔力の根源……その最も深い部分だよ。
そこにある魔導核が、君の魔力を生み出す“心臓”なんだ』
「心臓……」
静かに反芻するように、アデルは呟く。
『そして君がすべきことは、その魔導核に自ら触れることだ。
触れれば、君の中でまだ眠っている“回路”が開かれるはずだよ』
「……わかりました」
アデルはゆっくりと手を伸ばす。まずは、白き魔導核へと。
指先がそれに触れた瞬間――
眩い閃光が爆ぜた。
◇
「うわっ……!?」
瞬きすらできないまま、アデルは別の世界へと引きずり込まれていた。
そこは激しい怒号と震動が響く戦場だった。
空は鉛色に染まり、黒い雲がうねりをあげる。地は割れ、火柱があがり、風すら焼けるような熱気を孕んでいた。
「……ここは……どこだ……?」
視界の端で爆ぜる光。巻き上がる土煙。その向こうに、巨大な影が立ちはだかっていた。
それは、竜――いや、“竜のような何か”だった。
通常の竜とは異なり、その全身を覆う鱗は黒く、裂け目から紫黒い魔力が噴き出している。
背から伸びた双翼は空を覆い、地を揺るがす咆哮が戦場を震わせる。
(あれが……魔王……!?)
息を呑むしかなかった。
存在そのものが圧倒的だった。まるで“この世の理から外れた何か”が具現化したような恐怖。
だがその眼前に立ち、対峙する者がいた。
「レオンさん……!?」
その姿は、今よりも若く、だが目には確かな覚悟が宿っていた。
片手を高く掲げ、光と炎が絡み合う魔法陣を展開しながら、魔王へと歩みを進めている。
(父さんと……母さん!?)
レオンの背後、そこにはギルバートとステラ――アデルの父と母の若き日の姿があった。
それぞれが詠唱の構えを取り、共に戦うべく前を見据えている。
(リリス達の言ってたことはホントだったってことなのか!?)
だがそれだけではなかった。
さらに二人――
一人は鋼の如き体格を持ち、大剣を軽々と振るう騎士。
そして、もう一人は風に舞う金緑の髪を持つエルフの女性。静かな気配を纏いながら、水と光を組み合わせたような魔法陣を形成していた。
(……誰だ、この人……?)
初めて見るはずのその姿に、なぜか胸がざわついた。
そして、運命の一撃。
レオンが放った魔法が、幾重もの封呪と火焔の軌跡を描きながら魔王へと突き刺さる。
眩い閃光と共に、黒き巨影が絶叫をあげ、崩れ落ちる。
(……終わった……!?)
そう思った、次の瞬間だった。
魔王の体が崩壊する直前――その中心から、三つの黒い光球が飛び出した。
まるで意志を持つかのように、空を裂いて飛翔し、それぞれレオン、ギルバート、ステラの胸元へ――
「やめろっ!!」
アデルが叫んだ刹那、光が砕け、全てが消失した。
◇
再び、あの白と黒の空間へ戻る。
(いまのは……記憶……?)
未だに胸を締めつけるような感覚が残っている。
「レオンさん……今のは……あなたが見せたものなんですか!?」
返事はない。声を上げても、ただ空間に虚しく響くだけだった。
静寂。
そこには、誰もいなかった。
ただ、二つの魔導核だけが変わらず彼の目の前に浮かび続けていた。
そして、アデルはそっと、もう一方――闇の核へと目を向ける。
「……今度は、こっちだな」
黒の核は、どこか冷たいが、吸い込まれそうな深みを湛えていた。
指先を伸ばす。
ほんの一瞬、ためらいが胸をよぎったが、それを振り払うように意志を込める。
触れた。
その瞬間、空間が“砕けるような音”と共に、まるでガラスが割れるように歪み崩れ――
アデルはさらなる深淵へと、引きずり込まれていった――。
◇
場面が切り替わったその瞬間、アデルの全身を包んだのは、懐かしい香りだった。
薪の燃える柔らかな音が聞こえる。
窓から射し込む陽光が木の床に模様を描き、空気には乾いた木材と草花の混じり合った、あたたかな香りが満ちている。
それは――アデルが幼少期を過ごした、リーフェルの家。
「……ここは……」
呆然と呟いた彼の声は、空間には反響しない。けれどそれは、夢ではなかった。
彼の目の前で、小さな暖炉の前に二人の人影が座っていた。
ギルバート・セリオル。
ステラ・セリオル。
彼の両親だった。
今よりも少し若く、戦場から戻って日が浅いのか、彼らの顔には戦いの痕跡がかすかに残っている。
けれど、互いに見つめ合う眼差しは深く、穏やかなもので――ただ、その奥底に潜む憂いだけが、空間の温もりに微かな影を落としていた。
ステラの腹部は、膨らみ始めた命の証を宿していた。
そこにあるのは、まぎれもなく――アデル自身。
(……俺が、生まれる前の……)
自分の知らない過去。
聞かされてこなかった、両親の「覚悟」。
その光景はまるで、彼の心を試すように、静かに進んでいく。
「魔王の呪いが……ここまで残ってるとは思わなかったな」
ギルバートの低い声が、暖炉の揺れる火の音をかき消すように響いた。
普段は陽気で優しい父の面影とは異なる、どこか冷えた、重い声。
「ええ……私たちの身体はもう、呪いに蝕まれ始めてる。
でも……私たちは、もういいの」
ステラは静かに、ゆっくりと腹部に手を添える。
「……でも、この子は……この子だけは……」
そこまで言った彼女の声は震えていた。
決壊しそうな想いを押しとどめるように、彼女はゆっくりと目を閉じた。
「……生まれてくる命に、同じ苦しみを背負わせたくないの……ギル……」
ギルバートは何も言わず、ステラの肩に手を添えた。
その手は強く、だがどこか弱さも滲ませていた。
「大丈夫だ。……“彼女”が、きっとなんとかしてくれる。俺たちは信じるしかない」
その言葉と同時に――
玄関の扉が、コトリと音を立てて開いた。
風が一陣、草木の香りを運び、家の中の空気を緊張に染めた。
そこに現れたのは、長く伸びた金と緑の混じる髪をなびかせ、優雅に立つ一人のエルフだった。
彼女は、静かに家の中へ歩を進める。
「……待たせたね。準備に時間がかかってしまった」
「シルビア……!」
ギルバートの顔が一瞬ほころぶ。その目には、明らかな安堵の光が宿っていた。
シルビア――
かつて彼らと共に魔王を討伐した、エルフ族の叡智を継ぐ賢者。
その気配は穏やかでありながら、底知れぬ威厳と魔力を感じさせる。
「……頼む。俺たちには、もう君しかいない」
ギルバートの懇願に、シルビアはわずかに頷いた。
そして、ステラの前に膝をつく。
「……いいよ。やろう。ただし――」
その双眸が、まっすぐに二人を見据える。
「この呪いは、魔王が最後に放った“禁忌”に近い魔力だ。
胎児の段階でも既に、呪いの根が魔力核へ浸透し始めている。
だから……封印には、君たち二人の魔力が必要になる」
ギルバートとステラは、言葉を交わすまでもなく頷いた。
「私が魔法を起動したら……ギル、君は“闇”を。
ステラ、君は“光”の魔力を――自分の“魂の奥”から、引き出してくれ」
「任せて」
「私たちは覚悟を決めてるわ」
シルビアは息を整えると、床に向かって両手を広げた。
瞬間――
淡く緑がかった魔法陣が音もなく展開され、空中に文字の軌跡が浮かび上がる。
それはエルフ族古来の封印魔法。幾千の時を経ても失われなかった叡智の結晶。
「――《封呪神閑》!」
詠唱の声が満ちたとたん、家全体に神聖な気配が満ちた。
光と闇、相反する魔力が空気に波紋を広げ、ステラとギルバートの胸元から溢れ出す魔力が、術式の中心――胎内にいる胎児へと注がれていく。
アデルは、その胎児が自分だと理解していた。
(……これが、俺の誕生の瞬間……?)
胎内で、小さな命がふわりと光を放った。
光と闇が重なり、核を覆うようにして封印の紋が浮かび上がる。
その瞬間――彼の魂に、深く焼き付くような感覚が走った。
静かに。
厳かに。
そして確かに、命が“生まれた”。
その瞬間を、アデルは見届けた。
――そして、次の瞬間。
空間がふっと揺れ、あたりの景色が、音もなく溶けていった。
木の香りも、陽光の温もりも、全てが遠ざかっていく。
次にアデルが目を開いたとき、彼は再び“あの”白と黒の精神世界に戻っていた
◇
「はぁ……っ、はぁ……」
アデルは膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
先ほどまで見ていた映像――否、記憶としか思えないあの光景の余韻が、今も全身に焼きついて離れない。
父と母の決意。
自分の中に宿っていた“呪い”。
そして、それを封じるために放たれた命の力――《封呪神閑》。
それは彼の中に静かに横たわっていた“何か”を、確かに揺さぶった。
ふと、目を上げる。
魔導核は、変わらずそこに在った。
白と黒、相反する色の球体が、まるで呼吸をするように脈動し続けている。
それはもはや“ただの魔力の源”ではなかった。
まるで心そのもの。生の証。運命の結晶。
「……これが……俺の原点……?」
低く呟いたその声も、虚空へと吸い込まれていく。
この場所は静かすぎた。
空気の音も、風の気配すらもない。
だが次の瞬間――
背後に、空気の色が変わるような感覚が走った。
反射的に振り向く。
そこにいたのは――少女だった。
ただそこに“在る”だけで、空間がひとつ息を呑んだような、そんな静寂。
アデルは思わず息を止め、目を見開いた。
白いワンピース。
足元まで届く長い髪は、月光を溶かしたような銀白色に、ところどころ淡い灰の混じる不思議な色をしている。
まるで光と闇の境目から抜け出してきたような、そんな印象を与えた。
少女は黙って、アデルを見つめていた。
その瞳は静かで、透き通っていて――そして、底知れない“深さ”を宿していた。
「……君は……誰だ?」
アデルは慎重に言葉を紡いだ。
敵意はなかった。だが、圧倒的な“違和感”がそこにあった。
この空間の理に属していない。
それでいて、まるで最初から彼の内にいたような、そんな存在。
少女は答えなかった。
ただ、まっすぐに、アデルを見つめ続ける。
(……この子……どこかで……)
脳裏に、繰り返し見てきた夢の断片がよみがえる。
何度も、何度も。
闇の中で振り返る小さな背中。
その横顔。
こちらに手を伸ばそうとしていた――あの姿。
「……夢で……何度も君を見た……」
呟くように言ったアデルに、少女はほんのわずかに瞼を伏せる。
その仕草は、感情を持たない精霊のようでもあり、どこか哀しみを帯びた人間のようでもあった。
アデルが一歩踏み出す。
それに合わせるように、少女も一歩、静かに近づいた。
二人の距離は、まだ遠い。
だが、この空間には距離の概念など存在しないのかもしれなかった。
少女の口が、わずかに開いた。
だが、声はなかった。
その代わりに、アデルの胸の奥――心の最も深い場所に、直接響く“想念”のような感覚が伝わってきた。
――私は、あなた自身だよ
言葉ではない。
だが、確かにそう語りかけられた気がした。
「……どういうことだ……」
答えようとしたその瞬間、空間が脈動した。
少女の輪郭がぼやける。
風もないのに、彼女の髪が揺れる。
まるで――時が終わる合図のように。
「まって……君は……!」
アデルが声を上げたときには、すでに少女の姿は光の粒となり、風に溶けるように散り始めていた。
その最後の瞬間、少女は微笑んだ。
寂しげで、けれど、どこか嬉しそうな――そんな微笑みだった。
そして、消える間際に残された思念が、アデルの中に残る。
――次は、もう少し話せるかもね。
残されたのは静寂だけ。
だがその沈黙の奥に、確かな余韻があった。
まるで、魂に刻まれた“出会い”の痕跡のように。
アデルはゆっくりと目を伏せ、口元を引き結んだ。
(……次……、次も会えるのか……)
その時は、何を訊くべきなのか。
この奇妙な精神世界で、出会ったすべてが意味を持つことになると、アデルは本能的に悟っていた。




